【検証】会員の非難(1)

今年の冬は例年見られない大雪ですね。北海道や日本海側の方々はさぞ難儀されていると思います。

こんな時は危険を冒してまで富山へは行かず、家で静かに善知識方のお聖教を拝読したり、ブログを読んだりして教えの真偽を検証した方がよほど時間をうまく使えると思います。

本願力廻向の信心が正しく説かれるなら行く価値もあるでしょうが、雑行を勧めている教えが変わっていないのであれば、ハッキリ言って聞く価値はありません。

善をしようというなら、1回にかかる聴聞費用で家族に食事をご馳走したり、プレゼントをしたりした方が、富山に行くよりよっぽど善行だと思いますがいかがですか?




さて、年賀メールで私が信を獲させて頂いた旨をかつての法友に送ったところ、その一人から、

「後生が全く問題になっていない」

「簡単に救われたと言いのける」

「地獄一定の自己が知らされたとは全く思えません」

と非難がありました。



わかります。確かに、

「善をしなければ信仰は進まない」

「三十年、四十年聞いてわかるものではない」

と聞かされていたら、私の獲信の報告はまさに晴天の霹靂でしょう。

しかし、上記の三つの非難は当たっているのでしょうか。



今日は一番目の、

「後生が全く問題になっていない」

について検証したいと思います。これは一体どういう意味なのでしょうか?


親鸞会のホームページ:「「雑行」がわからぬのはなぜか

には、次のようにあります。


『我々は今、何を思い、行っているか。人間の実相を、釈迦はこう説破される。
「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」(『大無量寿経』)
 一生造悪の自己を徹見すれば、後生に恐ろしい結果が惹起することは必定だ。
 この一大事に驚けば必ず、悪をやめ善をしようと「廃悪修善」の心が起きる。ここで初めて「雑行」が出てくるのだ。
 釈迦の大雄弁をもってしても、ここまで導くのは並大抵ではなかった。
 信仰が進んで後生が問題になった人でなければ、自力も雑行も分からず、雑行が廃って助かることもあるはずがない。
 捨てよと言われる「雑行」を知るには、まず後生の一大事を知らねばならないのだ。
 これが仏法の出発点である。』

上の文章から、「後生に恐ろしい結果が引き起こること」に対して驚くことを、後生が問題になると言われているのだと思います。

そして、後生が問題になる前段階として、「一生造悪の自己を徹見」する段階が書かれています。


ここで決定的に抜けていることは、阿弥陀仏の本願が、「ただ今救う本願」だということです。

親鸞会では、「ただ今救う本願」に対して、

・善をしなければ信仰は進みません
・一生造悪の自己を徹見する
・後生に恐ろしい結果が引き起こると驚きを立てる
・そして、また廃悪修善を実行する
・雑行が分かり、雑行が廃って助かることがある

と何段階も条件をつけています。

そして、「まず後生の一大事を知らねばならないのだ。これが仏法の出発点である。」と書かれているように、親鸞会の会員の方は、まずは後生が問題になるところまで信仰が進まなければならないと目的がずれてしまってはいませんか?

目的は、「ただ今救う本願」に、ただ今救われること一つです。

「呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれ。」
(教行信証行巻)

「仏法には明日という事はあるまじき」
「仏法には明日と申す事ある間敷候。仏法の事は急げ急げ」
「今日の日はあるまじきと思え」
(御一代記聞書)

と親鸞聖人・蓮如上人は厳しく教えられています。

今日の日さえ無事に終わるとも限らないのに、無常を遠くに眺めているから「善をしなければ信仰は進みません」などと悠長な事を言っておれるのです。

かかる無常迅速の我々は、諸行諸善に心を止めている場合ではありません。

直ちに「一念で救う」と誓われた弥陀の18願によらなければ、どのようにして救われるというのでしょうか。

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」
(口伝鈔)

覚如上人のお言葉の通りです。


そもそも「真剣に善をしたら」「一生造悪の自己が知らされたら」「後生が問題になったら」というのは救いを先延ばしにしている心です。

そして、自分が問題にしている自己が救われるのではありません。阿弥陀仏に見抜かれた自己が救われるのです。

自分が問題にするよりも、ずっと前に阿弥陀仏は私のことを問題にされ、今救うぞ、今こそ来いよと十劫以来呼びづくめなのです。ですから、私の後生は阿弥陀仏におまかせするばかりです。

救いを先延ばしにして本願に心が向かず、自己ばかり問題にしているうちはいつまでも本願の心を頂けません。

蓮如上人は、

「この故に一心一向に「阿弥陀如来助けたまえ」と深く心に疑なく信じて、我が身の罪の深き事をば打ち棄て、仏にまかせまいらせて、一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事更に疑いなし。」
(御文章五帖目四通)

と仰っています。

救いを先延ばしにせず、ただ今救う本願に、ただ今救われて下さいと念ぜずにはおれません。
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そうですよね

後生が問題にならなくてもただ今救われるんですね。

・・・と言ったら語弊がありますかね?(笑)

>元親鸞会西学友部員 様

問題にならなくても、というより問題にもできないのが我々の実態です。

後生、またその先も流転輪廻から離れられない私達の実相を、私達が問題にする前に、既に如来が問題にしておられます。

私達が問題とし、解決すべき仕事を如来が全て引き受け、「我をたのめ」と衆生に喚びかけておられます。

私達はそれに順うより流転輪廻の絆を断ち切る方法はありません。他力に全託して下さい。

予想通り

予想通りのお返事を頂かれましたね。
高森氏の話以外で信心決定するなんて許さないとの執心からそう思わせるのでしょう。
私が努力して救われるのでないのに、何か悔しい気分にでもなってしまうのでしょうかね。


>元親鸞会西学友部員さん
『これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。』
御存知のこのお言葉の通りです。
闡提でなくなって救われるのではありません。
後生の一大事解決したいという心が起きるような智恵を私は持ち合わせてはおりませんでした。
ただ、阿弥陀仏のお助けに助けられるのみです。
阿弥陀仏のお助けが間違いないのです。

領解文と信仰が異なるように思うのですが・・・

いつも楽しみに拝見させていただいています。

>今救うぞ、今こそ来いよと十劫以来呼びづくめなのです。
>ですから、私の後生は阿弥陀仏におまかせするばかりです。

について

>救うぞ、来いよと十劫以来呼びづくめなのです。
>ですから、私の後生は阿弥陀仏におまかせするばかりです。

と聞かせていただけるのですが、どうしても「今」について不審が起きます。
真宗のお勧めとして「ただ」「そのまま」は聞いたことがあるのですが、個人的に「今」は新鮮です。

「ただ」は「他力」、「そのまま」は「煩悩具足の凡夫」と承っております。
「今」も親鸞聖人・蓮如上人のご著書にたずねて、いくつかの候補が浮かびました。

・「たのむ一念」の「一念」
・「平生業成」の「平生」
・「即得往生」の「即」
・「他力の信心といふことをばいますでにえたり」の「いま」

上記のように「一念」「平生」「即」「いま」と使い分けている御文を拝読し、そして淳心房さんやお同行の方のブログを拝見すると「今救うぞ、今こそ来いよ」の「今」が気になります。
親鸞会で根拠を軽視してしまった反動なのか、気になった表現にあたると根拠を探す習性がつきました。「今」にあたる両聖人のお言葉を教えていただけると、今後皆さんのブログを一層有りがたく拝見できると思っています。

>元S会会員様

見て下さり、コメントも有難うございます。
お尋ねの件ですが、根拠としては挙げて頂いた御文や、善導大師の「汝一心正念にして直に来れ」のお言葉などです。個人的には善導大師のお言葉が「只今」の救いと言った場合、一番ぴったりきます。

「そのまま」とは、「今のあなたのまま」という事ですから、「只今」という事です。
例えば、まだ私は一遍も念仏称えていないとします。もし「百万遍念仏称えたら助ける」本願ならば、「只今」の私は救われません。百万遍称えた暁に救われますが、只今と時間に開きがあります。
しかし「そのまま助ける」本願なら、救いに条件がありません。だから時間的な差はなく、「只今」の私が助かります。

お分かりでしょうか?

御回答ありがとうございます。

①今救うぞ、今こそ来いよ

②善導大師の「汝一心正念にして直に来れ」のお言葉などです。個人的には善導大師のお言葉が「只今」の救いと言った場合、一番ぴったりきます。

①②より「只今」=「汝一心正念にして」だと思いました。
間違っていたら教えてください。これからもブログ楽しみにしています。

失礼しました。

「只今」=「直に」ですね。

>元S会会員様

そうですね。

「直ちに」と言った場合、今すぐに、他より優先して、などの意味があります。
「直ちに片付けなさい」と親が子供に言った場合、「色々遊んでから片付けよ」という意味ではなく、「他より優先して、今すぐに片付けよ」という意味でしょう。

只今の救いに遇って下さい。ただ南無阿弥陀仏です。

「只今」を如来召喚の勅命と聞くときは、「直に」と頂く旨を理解しました。
ただ御文では以下のように「ただいま」を無常や後生三塗へ沈むことに使われています。
「ただ今救う本願」の「ただ今」とは意味合いが異なると考えられますので、御文を読むときは混乱しないように心がけたいと思います。

もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。
されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。

これほどに、はや目にみえてあだなる人間界の老少不定のさかひとしりながら、
ただいま三途八難に沈まんことをば、露ちりほども心にかけずして、
いたづらにあかし暮すは、これつねの人のならひなり。あさましといふもおろかなり。

お心遣い有難うございます。

>「今のあなたのまま」という事ですから、「只今」という事です。
から、「只今」=煩悩具足の私

>救いに条件がありません。
から、「只今」=私のはからいはなし

>だから時間的な差はなく、
から、「只今」=一念

>「只今」の私が助かります。
から、「只今」の私は往生が定まる。

よって、「只今」は「信心」とも聞かせて頂けます。

>只今の救いに遇って下さい。ただ南無阿弥陀仏です。
を、ただ南無阿弥陀仏が私の信心であり、それが「只今の救い」と承りました。

「只今の救い」から入ると、「いま」の言葉がお聖教では文脈によってニュアンスが異なり混乱していましたが、ただ南無阿弥陀仏が私の信心と聞かせていただけば、それが「只今の救い」と頂くことができます。有難うございました。

「今」のお勧めをおろそかにしていた私

「救いを先延ばしにせず、ただ今救う本願に、ただ今救われて下さいと念ぜずにはおれません。」のお勧めですが、昨日、ふいに加茂仰順和上のご著書を開いた折、淳心房さんの「今」というお勧めとちょうど同じ内容のお話だったので、自分がいままで「今」のお勧めをおろそかにしていたことを恥ずかしく思いました。

そこで、加茂和上の「真実の信心」のp.70-p73がまさしく淳心房さんの「今」というお勧めを聞かせていただくのに、すばらしい御縁になると思いまして、全文はコメントとして長すぎるので控えますが、途中まで引用させていただきました。

もし淳心房さんの御意見にそぐわなければ、このコメントを無効にしてください。

10
それで根本の暗闇を取り除くために、この自分の力ですることになれば三僧祇百大劫の修業をせねばなりません。(中略)
これほどむつかしいことであればこそ、法蔵菩薩の智慧でもってして、どうして暗闇を除いてやろうかと御思案ばかりが五劫の間、そしてそれを実現さすための願行に永劫の間かからせられ、出来上がったのがいまのお助けの南無阿弥陀仏です。しかしそれも臨終まぎわではない、平生業成の名号のお助けのいわれをはやくいただかねばなりません。
平生業成とは平生のとき往生の業が成弁するということで、平生とはたった今ということ、往生の業事とはお浄土参りの業因ということ、成弁とはかたづくということです。それが体も元気でたしかなたった今、助かることにきまりをつけて下さるお助けということです。
ところが、そこのところを聞き損って生きているうちに信心を頂いておかないと、死んでから地獄へおちてゆくからとするならば、真宗の信心は死なねば助からないようになります。そんななまぬるいお助けではありません。生きている今、助かる信心ですから、信心をいただいて死ぬるまでは浄土の道中です。死んだときは浄土へ参ったときです。

すみません。

>加茂和上の「真実の信心」

「真実の信心」ではなく、「真宗の信心」(探究社)でした。

「真宗の信心」

>元S会会員 様

加茂和上のお言葉を挙げて頂き、有難うございます^ー^)人(^ー^

記事で取り上げたいと思いますので、これをお読み頂いていたら、恐れ入りますが文章をご紹介下さい。
残念なことに、私は加茂和上の本を所持していなく(*_*)

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> 元S会会員さん

有難うございますm(__)m
読ませて頂きましたが、実に素晴らしい内容でした。

そのような素晴らしい本をお持ちで、羨ましく思います。是非とも掲載させて頂きます。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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