諸善と念仏は全く比較になりません

本日は、『観無量寿経疏・定善義』から、念仏と諸善を比較して教えられている善導大師のお言葉を紹介します。

自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらず。
このゆゑに諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。 『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。
また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからずと。 またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。 この例一にあらず。 広く念仏三昧を顕しをはりぬ。


【意訳】
念仏以外のさまざまな善も行もいわれるけれども、念仏に比べたなら、全くくらべものにならないほど劣っている。だから、数多くの経典の中に、いたるところで広く念仏のはたらきをほめておられるのである。たとえば『無量寿経』の四十八願には、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えて往生することができると示されている。また『阿弥陀経』には、一日でも七日でも、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えて往生することができると説かれ、またすべての世界の数限りない仏がたがこのことにいつわりがないと証明しておられる。また『観無量寿経』の中で定善・散善を説くところには、ただ、ひとすじに名号を称えて往生することができると示されている。このような例は少なくない。ここに広く念仏三昧について明らかにした。

このお言葉は、『観無量寿経』の「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」を解釈されるところで教えられています。また、法然聖人は、『選択本願念仏集』で上のお言葉を次のように教えられています。

また引くところの文(定善義)のなかに、「自余衆善雖名是善若比念仏者全非比校也」といふは、意のいはく、これ浄土門の諸行に約して比論するところなり。念仏はこれすでに二百一十億のなかに選取するところの妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億のなかに選捨するところの粗行なり。
ゆゑに「全非比校也」といふ。また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。ゆゑに「全非比校也」といふ。


諸善と念仏の功徳は比べようもなく、ひとえに念仏一行を勧めておられることがわかります。もちろん勧められているのは、十八願の他力念仏です。



浄土真宗とは浄土に往生するための真実の教えということですから、「浄土に往生するには」というのが既に前提になっています。
それには諸善は廃して念仏を立てよと教えられるのですが、親鸞会では「往生のために」「獲信の因縁として」「獲信するために」という言葉を敢えて外して、「諸善を捨てよ」と非難してくる者があると言います。それも、どこで、誰から、どのような非難が挙がっているのか、相手や相手先のブログ、ホームページを明かしません。まず相手の主張を引用して正確に受け止め、それに対して「親鸞会かく反論する」としてもらいたいものです。

諸善を雜行と嫌われ捨てよと言われるのは、往生の役に立たず、それどころか雜行を修めている間は「只今救う」本願の仰せを受け入れないからです。
自分のやっている善が雜行と知らされるまで善(雜行)をせよなどと、善知識方はどなたも教えられていません。雜行の意味が分かっていない、しかも雜行を獲信の因縁として(未信の者が獲信するために)勧めているのが実は親鸞会なのです。ちなみに親鸞会では、「獲信の因縁として」と「獲信するために」は違うと主張するかも知れませんが、会員は獲信しようと思って善をやっているわけですから、この2つは実質的に同じことです。
実際、「後生の一大事の解決のために」財施を精一杯させていただきましょうなどのフレーズを聞かされました。「後生の一大事の解決のために」と「獲信するために」は同じ意味として会員は使っていると思います。

「我々の善によって獲信するわけではないが、善のできない自分と知らされるには善をやるしかない」という理解の方は、「善のできない自分と知らされた時に獲信できる、善の実行によってその境地まで進む」と思っているのですから、少なからず善が獲信の役に立つという理解です。全く獲信の役に立たないのなら、救われようと思ってやる人は考えられません。

善に向かう姿勢はよく見えるかも知れませんが、獲信しようと思って善に励んでいるならそれは阿弥陀仏の御心に反しています。
善は大いにしたらよいのですが、それは報土往生、獲信とは無関係です。獲信と関係づけて諸善を勧めているから親鸞会は批判されているのです。

それにしても親鸞会で議題に挙げられ、主に勧められているのは「献金」と「勧誘」です。家事手伝い、勉強、早寝早起き、両親に手紙を書く、などは、それらの成果を効率よくあげるための手段として勧められることはあっても、メインではありません。それに、間違った教えを弘め、そこに人を呼び込んでも、とてもその行為は善と呼べる代物ではありません。雜行にもならぬ悪を勧めていることが、親鸞会の実態をご存知の方はよくお分かりかと思います。

更に、おつとめを勧められることはあっても、助業をなお傍らにして、念仏一行を専らにせよとは教えられることはありません。廃立が大事だと言いながら、捨てるべきものと立てるべきものの分別がまるでついていないというのが、親鸞会の実状でしょう。

速やかに生死を離れようと思うなら、難行であり劣行であると阿弥陀仏が選び捨てられた諸善に心をとどめず、阿弥陀仏が選び取られた至易にして最勝の行である念仏一行を一心に称えよと善知識方は仰せです。善知識方の教えに従うか、珍説だらけの悪知識の教えに従うか、選ぶのはその人次第です。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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