【ツッコミ】信仰の幼稚園

夢幻界裡の覚醒というブログに、本願寺の布教使を名乗る人物がひたすら親鸞会教義を並べています。大上段に構えて、「親鸞会教義こそ正しい、他は皆間違い、信仰の園児だ」として自説を述べる有様は親鸞会らしいですね。
では、ブログの主張は果たして親鸞聖人の教え通りのものなのか、検証していきたいと思います。

本日は、信仰の幼稚園の内容について取り上げます。


 阿弥陀仏の救いを求めている
 未信の者(まだ信心決定していない者)に対して、
 親鸞会は、
 「三願転入の教え」として、
 善を勧めているが、
 そんなことをしていたら、
 次の瞬間死ぬかもしれない命一刹那につづまる人は、
 間に合わないではないか。
 そんな時間のかかることを勧めるのは間違いだ。
 そんな善にこだわらせるのは、助からなくさせているのだ。
 早くそんな教えを捨てて、
 一念で救う、18願だけを信じればよいのだ。


と非難する者がいる。それに騙される者もいる。


相変わらず非難がどこから出たのか、出拠を明らかにしていません。本ならば何という本の何ページに、ブログなら何というブログの何という記事にあると書けばいいのです。よく知られていない、親鸞聖人の教えなのか真偽も疑わしい昔の本を引っ張りだす余裕があれば、コピー&ペーストで簡単に短時間でできるはずなので、ぜひそうして頂きたいと思います。

また、「早くそんな教えを捨てて、一念で救う、18願だけを信じればよいのだ」のどこがいけないのでしょうか?
「なんぢ一心に正念にして直ちに来れ、われよくなんぢを護らん」が弥陀の招喚の勅命です。
親鸞聖人は、この「直ちに」を『愚禿鈔』には、
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
と解説されています。
「方便仮門を捨てて、如来大願の他力に帰せよ」です。上の言葉に、
「早くそんな教え(方便仮門)を捨てて、一念で救う、18願(如来大願の他力)だけを信じればよい(帰せよ)」
と当てはめてみると、上の言葉は正しいことが分かります。

19願にこだわるあまり、弥陀の本願であり、釈迦出世の本懐であり、諸仏出世の直説である18願がおろそかになってしまっているのではないでしょうか?



18願の救いは、一念だが、

十方衆生を、その一念まで導かれるのに、

大変な時間がかかっている御苦労を知らない。


果てしない過去から今まで阿弥陀仏が私を助けるためにご苦労し、種々に善巧方便をされてきたことはその通りです。それは偏に私が阿弥陀仏に背を向けて逃げ続けてきたからです。只今救う本願の仰せを聞き受けず、撥ね付けてきたからです。
ところが、これから阿弥陀仏に救われようという人に長い時間がかかるのが当たり前のように説くのは、只今救う本願に反しています。やはり親鸞会教義では、「一念の決勝点」まで進むのに長い時間がかかるようです。
「救われるのは一念だが、その一念までは因果の道理を信じて善をして進むことが必要」というのは、結局救いは一念ではない、多念の救いということです。親鸞聖人のみ教えの一枚看板は「平生業成」といいながら、「平生業成」を説いていないのです。

如来の大悲、短命の根機をもって本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。(口伝鈔)

こういうお言葉を聞いていても、少しも疑問に思わないのが会員の不思議なところです。



方便がなくても、
18願を素直に聞ける自分だと、
スゴイ自惚れのド天井にあるのだ。

未信の者が、18願だけで救われるなら、
18願力に、真仮があるとでもいうのか。

珍説だ。


18願は、すべての衆生が相手だ。

十方衆生を一念まで導く方便が、18願力にあるのなら、
19願や20願を、誰も必要としないではないか。

弥陀が十方衆生を相手に建立された19願・20願は、無駄事か。


この人は19願の善(定散二善)を実行できる自分だと、スゴイ自惚れのド天井にあるようです。

「18願力に、真仮があるとでもいうのか」というのはmixi上でこうへい氏が発言していましたが、こんなことをいう人がいたら確かに珍説ですね。

願海に真(18願)、仮(19願、20願)を分けて、仮を捨てて真に入れと教えられたのが親鸞聖人です。縦と横の線の図が頭にあるので、上のような珍理論を展開するのでしょう。
横の線に該当するような道はありません。今までにどれだけ阿弥陀仏のお育てに預かったか知れませんが救いは常に今です。極悪深重の衆生は他の方便さらになしです。
弘願による救いを求める人に、今さら権仮方便の要門、真門を勧めて退行させるようなことを親鸞聖人は教えられていません。教えられているなら、定散二善を獲信のために修せよと教えられた親鸞聖人のお言葉を示して頂きたいと思います。



そもそも

「阿弥陀仏に向かっての善など不要だ、18願だけでよい」

などと言いながら、そう言っている本人はどうだ。

ちょっと、考えてもみればよい。

未信の者が、
信心決定しようと思って、
「18願の教えだけを聞くぞ!」と
「聴聞に励む行」は「どういう行」だ。

どこかの会場へ、足を運び、
18願だけを聞こうしていても、
その姿はすでに、
弥陀の救いを求めての「様々な行」が伴っているではないか。

なんらかの

持戒 や 忍耐 や 努力 や 反省 などなどが、

必ず伴うではないか。

弥陀の救いに向かっての善の行に対して、
口でどれだけ「不要だ」などと言っていても、
自分がそれをやっているのだ。


聴聞とは救いの法を聞かせて頂くことで、行だとか、善を修するとは言いません。聴聞は聞法善とか、宿善が厚くなる行為として3つなどという珍説を教えられているために、こんな発想が出てくるのでしょう。

「聴聞に励む行」や「様々な行」とわざわざ括弧付きで書いていますが、「私の行為」は獲信とは全く関係ありません。18願の救いというものをご存知ないようです。

また、本願寺布教使ならば、紅楳和上の『派外からの異説について』を読んだことはないのでしょうか? 『派外からの異説について』には、

 そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。高森親鸞会の主張のように、破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのである。

と書かれています。
聴聞と私の「様々な行」(何らかの持戒、忍耐、努力、反省など)を同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのです。繰り返しますが、そういった「私の行為」は獲信と全く関係ありません。他力の「聞」ということに注意をはらっていただきたいと思います。


最後に、上記のブログの著者は「本願寺の布教使」を名乗っていますが、『観無量寿経』に三福として、

かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。

と説かれているのはご存知でしょうか? もし、身分を偽装しているようなら、妄語の罪です。十善の一つである不妄語を行じていないような人が、19願とか定散二善とか善のすすめなどをお聖教の御文を並べて論じているならば、それこそ戯論であり、信仰の赤ちゃんでしょう。

親鸞会では、自分が、ただ今救われる平生業成の教えが本当に説かれているのかどうか、会員の皆さんには疑問をもっていただきたいと念じております。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

>18願の救いは、一念だが、
>十方衆生を、その一念まで導かれるのに、
>大変な時間がかかっている御苦労を知らない。

救いに出遇った者が「計り知れないほど昔から私を救おうとして下さったんだなあ」という意味で
「この一念まで導かれるのに大変な時間をかけて苦労させてしまった」と味わうのは別におかしなことではないが、親鸞会は違う。

親鸞会は、救いに出遇っていないものに
「一念の救いに到達するまでに大変な時間をかけて励まなければならない、阿弥陀仏はそのように要求しているんだ」
という意味で「救われるまでには大変時間がかかる」教義を打ち立てているのだ
つまり、この講師は自ら率先して
「浄土真宗は頓教ではない=救われるまでには大変時間がかかるのだ」という
親鸞聖人とは真逆の教えをえらそうな口調で大上段から宣言している。

親鸞聖人は「愚禿鈔」で、漸教とは

     一には難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
     二には易行道 浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。

とお示しだ。「浄土の要門」「定散・三福」は漸教
「18願の救いは一念だから頓教だ」などと主張するかもしれないが、
このブログの管理人自身が「定散二善の門を通って大寶海へ」などという記事を書いているのだから
トータルでかかる時間は「漸教で費やす時間+頓教で費やす時間」であり
時間のかかる教え、つまり漸教であることを一生懸命主張してるだけ。

> 親鸞会は、
> 「三願転入の教え」として、
> 善を勧めているが、
> そんなことをしていたら、
> 次の瞬間死ぬかもしれない命一刹那につづまる人は、
> 間に合わないではないか。
> そんな時間のかかることを勧めるのは間違いだ。
> そんな善にこだわらせるのは、助からなくさせているのだ。
> 早くそんな教えを捨てて、
> 一念で救う、18願だけを信じればよいのだ。

>と非難する者がいる。それに騙される者もいる。

この講師もまた、何も分かってないようだったから安心した
この批判を外部からのものと思ってる間は親鸞会は何も変わらないだろう。

これは他でもない、真剣に救いを求める会員が抱く疑問だ。
善をして、●●と知らされるまで励まねば・・・とある一方で
生きている間に救われること=平生業成(=未信のままでは堕地獄)が強調される。
「次の瞬間死ぬかもしれない命一刹那につづまる人」とは自分かもしれない、
自分は「間に合わない」かもしれない・・・
親鸞会一色で真剣に救いを求める人ほど焦るのは当然である。

いろんなブログを立ち上げてはその都度「管理人のキャラ」を変えてご苦労なことだが
会員を献金マシーンのように煽って真剣な救いを求めさせておきながら、
救われない会員の焦りの声を「外部からの批判」みたいな主張でごまかしている。
会長が生きている間はこのままなんだろうなぁ。
こうやって救われないことへの焦りと疑問を募らせる会員が増えていくのだろう。

仮よりしか

高森会の支部長は


仮よりしか 18願に入れない


こればかりです


まさしく 漸教 ですね


どこに、聖人が 仮をしなさい と 教えておられるのですか?

>法相等、歴劫修行の教なり様

そう話すしかないのでしょうね。そして誰も親鸞会でいう仮から18願に入る者はいない。一番親鸞会に時間、体力を費やしているはずの講師部員さえ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード