【ツッコミ】阿弥陀仏のお計らい(1)ー親鸞聖人の教えに19願の善(雜行)の勧めはあるか?

本日は、『夢幻界裡の覚醒』阿弥陀仏のお計らいについて、区切って教えの真偽を検証していきたいと思います。


おほよそ心について、二種の三心あり。
一には自利の三心、二には利他の三信なり。
また二種の往生あり。
一には即往生、二には便往生なり。
ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、
これすなはち諸機自力各別の三心なり。
『大経』の三信に帰せしめんがためなり、
諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。
三信とは、これすなはち金剛の真心、不可思議の信心海なり。
また「即往生」とは、これすなはち難思議往生、真の報土なり。
「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、
胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、
また難思往生なりと、知るべし。
               (愚禿抄)

万行諸善の小路(十九願)より
本願一実の大道(十八願)に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなはちひらくなり(高僧和讃)

大経往生といふは、
如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。
これすなはち念仏往生の願因(第十八願)によりて、
必至滅度の願果をうるなり。
現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。
これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、
無上涅槃のさとりをひらく。
これを『大経』の宗致とす。
このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、
至心発願のちかひにいりて、
万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。
しかれば『無量寿仏観経』には、
定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、
九品往生をすすめたまへり。
これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。
このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。
これを双樹林下往生と申すなり。

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて
不果遂者の真門にいり、
善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。
しかりといへども定散自力の行人は、
不可思議の仏智を疑惑して信受せず。
如来の尊号をおのれが善根として、
みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。
不可思議の名号を称念しながら、
不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。
その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、
いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、
三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、
如来は説きたまへり。
しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。
徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。
不可思議の誓願、疑惑する罪によりて
難思議往生とは申さずと知るべきなり。

             (三経往生文類)

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親鸞聖人は、
「十九・二十の方便二願」を、
「真実、十八願に転入する、十方衆生の道程」と、みておられる。

これが、観念の遊戯では分からないことなのである。



愚禿鈔、高僧和讃、三経往生文類の文を用いてお決まりの珍説を述べています。
縦と横の線の図によるトリックが分かった人には問題ありませんが、まだあの図の影響下にある人に解説を加えたいと思います。

上の『愚禿鈔』『三経往生文類』のお言葉は、
18願ー報土往生
19願・20願ー化土往生
であることを示し、19願(20願)では化土にしか往生できない、だから18願によって報土往生しなさいと教えられているお言葉です。
上の『高僧和讃』のお言葉については、「万行諸善の小路より」の御和讃(改訂版)に書きましたので、参照して下さい。

19願、20願が18願の救いに絶対必要なものならば、親鸞聖人は御同行の方々に19願の善、20願の念仏を勧めておられるはずです。ところが、『教行証文類』はじめ『愚禿鈔』『浄土文類聚鈔』『一念多念証文』『末灯鈔』『御消息集』『三帖和讃』など、親鸞聖人のご著書には19願の善を勧められた箇所はありません。
辛うじて20願を勧められた箇所は『教行証文類』に1箇所だけありますが、後に20願の行者の失を述べられていますから、弥陀の浄土を願う人に親鸞聖人は18願一つ勧められていることが伺えます。
親鸞聖人のご著書を少々抜粋し、聖人が往生、獲信のために諸善(雜行)をせよと教えられているのかどうか、見てみましょう。


(1)それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。(教行証文類行文類)

(2)しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(教行証文類化身土文類)

(3)経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。(教行証文類化身土文類)

(4)大乗教について、二教あり。
一には頓教、        二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。(愚禿鈔)

(5)恒沙塵数の如来は
万行の少善きらひつつ
名号不思議の信心を
ひとしくひとへにすすめしむ(浄土和讃)

(6)極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ(高僧和讃)

(7)自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける(正像末和讃)

(8)「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。
これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。(唯信鈔文意)

(9)雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。(唯信鈔文意)

(10)「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はみなといふなり、「不論」はいはずといふこころなり。「照摂」はてらしをさむと、「余の雑業」といふはもろもろの善業なり、雑行を修し雑修をこのむものをば、すべてみなてらしをさむといはずと、まもらずとのたまへるなり。これすなはち本願の行者にあらざるゆゑに、摂取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。(一念多念証文)

(11)「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。(一念多念証文)

(12)一念多念のあらそひをなすひとをば、異学・別解のひとと申すなり。異学といふは、聖道・外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり、これは外道なり、これらはひとへに自力をたのむものなり。

別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなはち自力をはげむひとなり。自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文)

(13)定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。(末灯鈔)



如何でしょうか?
阿弥陀仏に救われようとして修する諸善を雜行と言います。19願の善も、もちろん雜行になります。親鸞聖人は雜行を勧められているでしょうか?

・速やかに生死を離れようと欲するならば、雑行は捨てよ(1の御文)
・自力諸善は化土往生の業因であり、報土往生できない(3、4、7、8、9、13の御文)
・自力諸善の者は、阿弥陀仏の光明によって照摂されない(3、10の御文)
・浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教は漸教(4の御文)
・念仏以外の行をたのむこと、自力を誡められたり、他力念仏(信心)が勧められている(2、5、6、9、11、12の御文)

と、教えられているのですから、19願の善が勧められているはずはありません。


それでも、「それはあくまでも縦の線の一念でのことで、そこまでは廃悪修善をしなければ進まないんだ」と強弁したければ、阿弥陀仏に救われるために19願の善をせよと勧められている親鸞聖人のお言葉を明示してからにして頂きたい。八万四千の法門と本願の関係を教えられた御文を持ってきても、19願を勧められた根拠にはなりません。親鸞聖人が勧められていないことを、さも勧められているように偽る者こそ、偽の仏弟子であり、外道邪教徒と言って然るべきでしょう。




【補足】
上に引用した『愚禿鈔』の御文については、『元会員から見た浄土真宗親鸞会』
「本願一乗」とは(3)
をご覧下さい。
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>秘密コメント様

ご指摘ありがとうございます。
仰る通りです。訂正させて頂きました。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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