【ツッコミ】阿弥陀仏のお計らい(4)ー親鸞会は「信前の体験至上主義」です

【ツッコミ】阿弥陀仏のお計らい(3)の続きです。本日も、『夢幻界裡の覚醒』阿弥陀仏のお計らいについて、区切って教えの真偽を検証していきたいと思います。


そして、
聖道仏教の学僧達から、
「諸善を勧める19願は本願ではないのか」
と非難されて、
法然上人の教えを聞きながら、
「19願の往生」を主張する人が多く現われたので、
親鸞聖人が
19願では化土往生しかできないから、
報土往生の18願をはやく信じなさいと
おっしゃっているのであって、
18願の往生と19願の往生は別物で、並立するものであり、
19願で往生しようと願っている人に対して
それは間違いであると誡めておられるに過ぎず、
18願の難思議往生を求めている人に
19願の難思往生からスタートせよと仰ったものでない、

18願は報土往生、
19願は方便化土往生と仰っており、
親鸞聖人が勧められているのは、ただ18願であって、
19願往生は誡められているのであり、勧められたお言葉はない、

と主張するのである。

これが、まことにお粗末な、誤解なのである。



よく相手側の主張を理解していると思います。
19願は、至心・発願・欲生の三心で修諸功徳の善を修めた者の臨終に来迎し、極楽に引接するという願であり、20願に送り出すという願ではありません。
だから、19願往生は誡められているのであり、勧められたお言葉はありません。それのどこがお粗末な誤解なのか、先へ進みます。



どこが間違いなのか。

確かに、19願、20願の道程は、権仮方便である。
「親鸞会はそれを理解していない」
という判断が、
そもそも
大間違い
なのである。

親鸞会では、
19願、20願のお導きのことを、
「種々に善巧方便されている」
と教えられることがあるので、
善巧方便と、権仮方便との区別さえついてない、
と誤解するのであろう。

その理解が、実に甘いのである。



確かに、19願、20願の道程は、権仮方便である」というように、「道程」という言葉がどうして入ってくるのでしょうか? 親鸞会ドグマに冒されているので、19願、20願は18願に転入する道のり、道程という考え方から抜け出せないのでしょう。単に、「19願、20願は、権仮方便である」と言えばよいのです。


それにしても、まことにお粗末な理解です。
善巧方便とは、衆生の理解によって用いられたり、廃されたりするようなものではありません。真実を知ったからといって捨て去られるものではないのです。しかし以下の文章で、19願、20願は「廃る」と書いています。「親鸞会は善巧方便と権仮方便の違いを理解していない」と言われる訳です。善巧方便と権仮方便については、『飛雲』善巧方便と権仮方便の意味を教えてあげてくださいを参考にして下さい。

続きを読んでみましょう。



高森顕徹先生は、19願、20願の教えを、
権仮方便として教えておられる。
すなわち、
「19願、20願の方便は、真実18願に転入の時に一念で廃る」
ということを、鮮明に説き明かされているのである。

正しく聴いている者は、当然のように心得ていることである。



聴いている者の理解は、18願の救いを願う人にも19願、20願は必要で、19願、20願の行信をやらねば信仰は進まず助からないというものでしょう。これでは19願・20願は権仮方便であると理解しているとは言えません。
縦と横の線の図と、「我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なもの」「仮よりしか真に入れず」という親鸞会独自の教義を植え付けられ、臨終来迎を期待せねば化土へも生まれられない行をやろうとして、平生の救いから遠ざけられているのが会員です。



非難する者たちは、この
「方便の教えを捨てる」ということを、
一体、どう理解しているのであろうか。
この
「捨てる」
は、
ちょっとやそっとでわかることではない。
「その教えを聞かず、実践しないこと」
と、どう違うのか。
「自分で捨てたつもり」
でいるだけであろう。

阿弥陀仏によって、
19願、20願の「心の道程」を通らせられて、
18願に転入する一念で、必ずそれらが廃るのである。
自分で、聞かない、信じない、やらない、
などと、桁違いなのである。

すなわち、弥陀願力によって、
自力の心が廃って、他力の心が満入してくださるのである。



このブログの著者は、『聖道門も権仮方便の教えですが、貴方は聖道門の教えを聞かず、実践せず、自分で捨てたつもりになっているだけではありませんか?』と聞かれたらどう答えるのでしょうか? 答えを聞いてみたいところです。

さて、「弥陀願力によって、自力の心が廃って、他力の心が満入してくださるのである。」
はその通りですが、勝手に
「阿弥陀仏によって、19願、20願の「心の道程」を通らせられて、18願に転入する一念で、必ずそれらが廃るのである。」
と計らって、信前の人が必ず通るという「心の道程」なるものを設け、そこを進まねば18願に転入する一念まで辿り着けないように説いています。
これでは、救いは「心の道程」を進んだ先、つまり未来にあるということであり、今ではありません。平生業成の教えだと言いながら、実際は平生業成になっていないことがわかります。

信後の者が、獲信の現在から過去を振り返って「全て阿弥陀仏のお計らいだったなぁ」と喜ぶことはあるでしょう。実際に私はそのように味わっております。

しかし、信前の者に「こういう心の道程を通るんですよ」と型にはめるような説き方をするのは危険です。「心の道程」を通った先に救いがあるように思わせ、「自分はまだ通っていないから助からないのは当然」と、只今の救いをもう信じられなくさせてしまうからです。

親鸞会は某団体を体験至上主義だと批判しています。
一方の親鸞会は「19願、20願の心の道程」なるものを設けて、そこに会員を当てはめさせる説き方をしています。その点からいえば、親鸞会は「信前の体験至上主義」なのです。聞いている側からいうと、合わないものを「合わせよう合わせよう」とさせられているのですから、「微塵劫を超過すれども仏願力に帰しがたく」で流転輪廻は際もないでしょう。

善知識方が捨てよと教えているものを、拾えと教えるような者を悪知識と言います。
「平生業成」の教えを破壊する説き方をする者も悪知識です。そのような悪知識に人生を委ねたら…結果はその人が身を持って体験することになります。どうかその前に悪知識のトリックを見破り、その手から離れて18願の救いに救われて頂きたいと思います。
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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