助かるに念仏いらん!?

なぜ会員はあんなに熱心に求めているのに、誰も助からないのか?に、コメントを頂きました。有難うございました。
その中で、ため息さんのコメントに会長の発言として載っていたのが以下の文章です。


今日会長は「念仏いらん」と言い「助かるに念仏いらん」と言いなおしました。

その後、ため息さんより、より詳しく会長の発言を教えて頂きました。

※ 学校の教科書に 「念仏称えたらだれでも極楽に行ける」と
教えたのが 親鸞聖人
それは誤解である。迷信です。

誤解を正す限りなく重い親鸞聖人のお言葉
ただ信心を要とす
涅槃の真因は唯信心
正定の因は唯信心
…等
ただ念仏を要とす の お言葉は無い

「念仏はいらん こう言うと 聞きぞこなうか 助かるには念仏いらん」※



「信心正因」ということを説明したかったのでしょうが、「助かるには念仏いらん」はとんでもない暴言です。なぜならば、信(信心)も行(念仏)も阿弥陀仏が第18願で誓われたことであり、信心の内容は、本願の念仏以外にはないからです。

親鸞聖人は『御消息第7通』(『末灯鈔11通』)に

行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。


と教えられています。この意味は、

行というのは、本願の名号をわずか一声称えただけでも往生できる(無上の功徳をもった名号である)ということを聞いて、仰せに従って一声、あるいは十声、さらには一生涯称えることを行というのです。この本願の仰せを聞いて少しも疑いをまじえないことを信の一念(二心をまじえない一心)というのです。このように信と行と二つあるようですが、行を一声するだけでも往生ができるという本願を聞いて疑いをまじえないことを信というのですから、行を離れた信はないと、お聞かせにあずかっています。また(本願を疑いながら称えているような念仏は自力の方便行であって、第十八願に誓われている本願他力の真実行ではありませんから)信を離れた行はないとお心得下さい。(信も行も)みな阿弥陀仏が第十八願において選択して与えてくださった御誓いのたまものである(本願力回向の法である)と心得なさい。

『聖典セミナー 教行信証 教行の巻』(梯實圓著 本願寺出版) 167-168頁より


ということです。

この親鸞聖人のお言葉から分かるように、信心とは念仏(行)を私の救われる道であると疑いなく受け入れた状態なのです。そして、本願の行を疑いなく受け入れたとき(信の一念)、私の往生が定まるので、信心が肝要と言われるのです。

ところが、「助かるには念仏いらん」と言ってしまうと、信の対象である行がなくなってしまうので、信もまた無いことになります。親鸞会では、信心決定、信心獲得という言葉だけは強調しますが、その信心の内容である「本願の念仏」がないので、18願を説いていることにはなっていないのです。



次に、「助かるには念仏いらん」ということを自力念仏はいらないという意味で言ったのだとしたら、親鸞会自らが主張する「三願転入の教え」に反しています。19願(行は自力諸行)、20願(行は自力念仏)を通らずに18願に転入することなどあり得ないということが親鸞会の主張ですから、自分の造り出した教義との整合性はどうなるのでしょうか?
自力念仏はいらんとなると、20願は不要ということです。それでは三願転入になりません。19願と18願の二願転入です。それにしても、「助かるには念仏いらん」とは言っても「助かるには諸善いらん」といわないのは、会長の深い欲望がなせる業でしょう。



つまり会長の「助かるに念仏いらん」発言は、本願念仏の教えを破壊するだけでなく、自身の「三願転入の教え」すら破壊する、自爆的な発言だということです。会員の皆さんは気がついていらっしゃいますか?

阿弥陀仏が選取された称名念仏の一行を「いらん」といい、阿弥陀仏の選捨された一切の諸善にこだわる高森会長は、本願のこころを破壊しているのです。浄土真宗の看板を速やかに下ろした方がよいでしょう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

この親鸞聖人のご消息のお言葉の意味を、ぜひ会長センセイにお尋ねしたいものですね。

>Rudel様

親鸞会には、信心を強調しすぎて念仏を軽視する傾向がありました。今は信心の内容である念仏をいらんと言っていますから、信心も同時にいらんと言っているようなものです。
今回の発言で高森会長は自爆してくれました。いい加減に会員さんを解放してあげてほしいです。

No title

諸善=雑行の勧め、念仏の軽視……
一枚起請文にことごとく違背する団体が浄土真宗を名乗る資格などあるのでしょうかね?

>名無し様

それは言うまでもありませんね。
「浄土真宗」とか「親鸞聖人の教え」と言わなければもっと非難は減るでしょうが、名乗るならば雑行(実態は勧誘と献金)の勧めや念仏の排斥は止めて、まっとうに正しい教えを伝えてもらいたいと思います。

行間(?)を読んでみる

今までの親鸞会の教えに合うように解釈すると、
「念仏はいらん こう言うと 聞きぞこなうか 助かるには念仏いらん」
というのは、
「念仏はいらん こう言うと (信心獲得まで進むのに念仏や諸善は実行しなくていいとか、
 往生極楽が定まったことへのお礼の念仏は要らないとか、というように)聞きぞこなうか。
 助かるには(極楽に往生する正しい因は)、念仏いらん(自力の念仏や諸善ではない)。
(念仏や諸善は実行しないと、信心獲得まで進めないし、
 往生極楽が定まったことへのお礼の念仏はもちろん大事である)」
と言いたいのではないかと思います。

実際は本人に聞いてみないと分からないでしょうが。
あるいは、このことについて会員から質問があり、会長が補足するかもしれません。

端的な言い方なので、どうとでも解釈できてしまう言葉です。
だから、これまでと言っていることが違うじゃないか、と考えるより、
これまで言っていることからすると、こう言いたかったのだろうか?
と考えたほうが建設的だと思います。

>ぺんぺん草様

建設的なご意見、有難うございます。誰か当ブログをお読みの方で、会長に真意を確かめて下さる方があれば、ぜひ質問して頂きたいと思います。そして、回答を改めてコメントして下されれば幸いです。

しかし行間を読んだにせよ、とても浄土真宗とは言えない教義内容です。獲信のための自力諸善を勧める親鸞会が、親鸞聖人の教えを曲げて伝えているのは、曲げられない事実です。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード