『教行証文類』の概要(9)ー真実の行

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

真実の行

 真実教には、万人が平等に救われる道として、南無阿弥陀仏という本願の名号が与えられていることを明らかにし、これを信じ、これを行じなさいと勧められていました。これによって往生の因として阿弥陀仏より真実の行信が回向されていることを信知し、行じていくことを顕すのが「行文類」と「信文類」でした。

 親鸞聖人は「行」の左訓に「オコナフトマフスナリ」(『原典版聖典』七九六頁)といい、また「真実の行業あり」(『註釈版聖典』六二五頁)ともいわれていますから、行とは「おこなう」「おこない」のことと見られていたことがわかります。もちろんその「おこない」は、それによって迷いの根源である無明煩悩が寂滅し、涅槃の境地に至ることのできるような徳をもった「まことのおこない」(真実行)であることはいうまでもありません。

 「行文類」によれば、阿弥陀仏より回向された大行とは、尽十方無碍光如来の名を称える称名ですが、称え顕されている本願の名号は、阿弥陀仏がさとられている真如法性の徳の顕現態であり、一切の善根を内包していて、あらゆる功徳の根本であるような徳をもっており、それをいただいて称えるものの身に速やかに満足せしめていくはたらきをもっています。それゆえ大行といわれるのであると讃えられています。そのような称名は、私たちの口に現れていますが、人間の判断によって行っているような人間の行為ではなく、阿弥陀仏の大悲の願から出てきた行であり、本願力によって恵み与えられた如来回向の行なのです。それは、いいかえれば、阿弥陀仏そのものが称名の声となって煩悩のまっただ中に顕現してきて、生死に惑う衆生の無明(無知)の闇を破り、往生成仏の志願を満たしていく大悲招喚の勅命でもありました。こうして本願の念仏は、私たちに人生の意味と方向を信知せしめ、人生にまことの実りと安らぎをもたらすから「真実の行」といわれたのです。


(p.19~p.20)



私を迷いから呼び覚まし、救いを告げる御名が南無阿弥陀仏の名号であり、一声一声の称名は阿弥陀仏の本願海から恵まれた行であるから「真実の行」と言われるのですね☆
南無阿弥陀仏という、「そなたを助けるぞ」の勅命を仰せの通りそのまま聞く。これがすなわち信です。
こちらで「助けて下さい」「念仏称えたら助けて下さるだろう」と、念仏を自分の善根として称えていては助かりません。あくまでも「阿弥陀仏が私を助ける」という先手の法をお聞きするのです。
まだ本願を聞いていない方も、力強い本願力によってたちどころに他力摂生の旨趣を受得する身となれますから、只今救う本願を聞いて只今救われて下さい。
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信受本願(本願を信受する)とは、本願に疑いはれたことですから、本願文でいうと「信楽」。

前念命終(一念で命が終わる)とは、本願を信受した一念で自力心が廃ること。

即得往生とは、その時往生を得ということですから、この往生は不体失往生のこと。

後念即生とは、一念同時に正定聚に生まれること。

つまり、
「終わる命」とは何のことですか?

自力の心

「生まれるもの」は何ですか?

正定聚に生まれるということ。


信楽を獲ると同時に、自力の心が廃り、正定聚になることを説明したお言葉ですね。

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親鸞聖人は、他力の信心(信楽)を獲得すれば、正定聚になると教えられています。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。(教行信証信巻)

しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。(教行信証証巻)


信心獲得するのと、正定聚になるのは同時ですが、信心と正定聚は異なる概念です。


【補足】
これらを読むとよいと思います。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-52.html

http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-155.html

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それなら、蓮華の五徳で花果同時の徳というのがあるでしょう。花が咲くのと実ができるのは同時ですが、花と実は同じかと言ったら違いますね。
信心(信楽)が因となってこの世では正定聚の位に定まるという利益が得られます。信心(信楽)をうればすなわち往生す(正定聚の位に定まる)。すなわちとは時を隔てず日を隔てないという意味で、同時ということです。

若不生者の「生」が当益の意味であるのは親鸞聖人のお言葉より明白です。
では当益が定まるのはいつかというと信楽を獲得した時です。その根拠が成就文です。信楽を獲得した人が、正定聚に住することが成就文に書かれています。
だから、阿弥陀仏の救いはこの世では正定聚に生まれ、死後は極楽に生まれさせるということです。当益から派生して、「生」は正定聚に生まれると解釈することもできるでしょう。しかし、信楽=正定聚とすると、本願文の意味が信楽を獲た人を信楽に生まれさせるということになってしまい、ヘンテコ解釈になりますね。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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