四つの角目に諸善の勧めはない

浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い「四つの角目を聞け」に、蓮如上人が聞けと仰っている角目として、

1、阿弥陀仏の本願
2、本願の名号のいわれ
3、信心
4、称名念仏

を挙げています。

これらの内容の説明はともかくとして、親鸞会がやかましく言い、先に紹介したブログでもやたらと取り上げている諸善の勧めがありませんね。
それもそのはずです。本願に救われるのに、諸善は雑行と名づけて嫌われていると蓮如上人は仰っているからです。

本願の救いに諸善は関係ない真宗の教えは、中々信じられません。余程おかしくない宗教でない限り、どの宗教も廃悪修善を勧めているからです。信じられないどころか、救いと善が関係ないというと教えを誹謗する人が出てきます。
だから蓮如上人は、むやみやたらに法を説いてはかえって相手に謗法罪を造らせることになるから、宿善・無宿善の人を分別して、宿善の機に法を説くように教えられています。ここで言われる「宿善の機」とは、18願の救いを信じられる人のことで、反対に18願の救いを直ちに信じられない人を「無宿善の機」と言われています。

宿善という言葉は注意してみなければなりません。親鸞会でいうように、宿世の善根という意味で書かれているところもあります。しかし、「宿善・無宿善の人を分別して法を説け」と蓮如上人が仰るときは、過去世の善根があったとしても、18願による救いを願わない人は、「無宿善の機」と言われているのです。

18願の、只今無条件で救うという本願を聞いて、「それこそ私が救われる教えだ」と信じられる人は宿善の機です。救いに遇うには善が必要だと本願を撥ね付けている人は無宿善の機です。

親鸞会の会員は、聞き始めた当初は平生只今救われるという親鸞聖人の教えに共感し、自分も平生只今救われたいと思って会員になったのだと思います。私は、先輩の強烈な勧めもあったにせよ、阿弥陀仏に救われたいと思って入会しました。その時点では宿善の機だったのです。
それがやがて、宿善という言葉が出てくる御文の解釈を誤って教えられました。宿善を厚くしなければ助からないと教えられました。三願転入しなければ助からないと教えられました。19願の善をしなければ横の道を進んで縦の一念にたどり着けないと教えられました。
いつの間にか、「善をしなければ信仰は進まず助からない」ように思い込まされていました。無宿善の機にされてしまっていたのです。

親鸞会の会員は、18願の救いに善が関係ないと言うと猛反発するでしょう。それは、18願の只今無条件の救いを信じられない無宿善の機だということです。
これはひとえに説く者の責任です。親鸞会が馬鹿にしている本願寺の僧侶ではなく、会長自身が真宗をねじ曲げているのです。
本来宿善の機だった人を、無宿善の機にしてしまっているのが親鸞会であり、高森会長です。

只今阿弥陀仏に救われたい方は、救いに善を要求するような教えから離れて、18願一つを聞いて頂きたいと思います。18願一つ説くのが真宗ですから、聞く者は18願一つ聞けばよいのです。

親鸞会の善の勧めは、簡潔に言うと「雑行を捨てるために雑行をせよ」ということですから完全に誤りです。しかも、実際の活動をみると「それで、本当に善を勧めているの?」と思えるような事例を目にします。真宗でも何でもない、外教邪偽の異執です。
未だにこのような教えを世界唯一にして真実の宗教などと勘違いをしておられる方は、親鸞会教義と批判ブログをよく見比べてみて下さい。違いが分からない方は質問頂ければお答えします。
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18願

親鸞会会員です。


高森氏の解釈が間違っているとしたら、18願を聞くにはどうすればよろしいのでしょうか?

>一馬様

18願で阿弥陀仏は「一馬さんを今ここで助けるぞ」と仰せですから、一馬さんはその本願の仰せをそのままお受けするのです。「助けるぞ」の仰せを聞くのが即ち信です。

「どうすれば」と私の側に問題を持ってきがちです。それは、一馬さんが「どうかなった先の救い」と思っているところに起因する思いです。
それに対して、阿弥陀仏は「そのまま救う」と仰せです。そのままですから、今の一馬さんのままです。私の側に問題をもってきて、それを解決しなければ救われないということではありません。
一馬さんが何かして助かろうとする思いは一旦横に置いて頂いて、一馬さんを必ず助ける本願をそのまま聞いて下さい。本願に嘘はありませんから必ず救われます。

この四つの角目はたしか会報にあったかと思います。昔は会長もまだまともな事を説いていたというか、言われている内容は正しいかと思いますが、聖教上の出典はどこなんでしょうね。

>Rudel様

会報にあるかは存じませんが、『こんなことが知りたい1』には問25に書かれています。
聖教上の出典はどこなのか、分かる方があったら教えて下さい。ただ『御文章』を拝読すると、確かにこの四つの角目が説かれているのに気がつきます。

No title

宿善のある人が、無宿善の人になってしまうということがあるのでしょうか?

また「無宿善の機に法を説くな」と聞きますが、親鸞会の会員の人にはどのように話せばよいでしょうか?話してはいけないのでしょうか?

>質問様

私がそうだったという例を本文中に示しました。
幸いにも私はよき師や同行に恵まれ、今は本願を信じ念仏する身ですが、宿善の話をされ出した頃から親鸞会を退会する直前までは、とても18願の救いを信じられない者(無宿善の機)に成り代わっていました。
これは説く者が、聞く者を無宿善の機にするような教え方をしているからです。本願を説きながら、実は宿善厚くしなければ助からない、善をしなければ信仰は進まない(つまり助からない)と、平生只今の救いでないような教えを説くからです。しかし当時は「高森会長しか真実説いていない」信心でしたので、「こんなことで本当に助かるのか?」と思いながらも聞き続けるしかありませんでした。

親鸞会の会員の中には、ふとしたきっかけで親鸞会教義はおかしいと気づく人がまだいると思います。むやみやたらに18願をそのまま説いたら受け付けないばかりか上司に通報されるでしょうから、教義や組織のことで疑問はないか聞いてみたりして、聞く気がありそうな人に話をしたらよいと思います。
例えば「今日死んでしまったらいつ信仰が進んで助かるんだろうとか思わない?」とか、「宿善を厚くせよと教えられた親鸞聖人や蓮如上人の根拠分かる?」とか、「本願は平生只今救うお約束だよね? 善をしていった先の、未来の救いではないよね?」という質問をして、共感した人に「実は…」と『私の白道』や『親鸞会教義の誤り』、『安心問答』『21世紀の浄土真宗を考える会』の記事を一緒に読んだりしたらよいかと考えています。
ちなみに質問様は会員で、もう教義の誤りには気づかれた方ですか?

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回答

先に、

即得往生の往生とは、
1.現生正定聚(=不体失往生?)
2.当来の浄土往生
の2つの解釈があるそうです。
これは正しいのでしょうか?

に答えます。これは、「即得往生」を親鸞聖人は現益とみられましたが、「即得往生」の見られ方に二通りの見方があるということです。
一つには、「往生」の二字を命が終わるときの報土往生、「即得」の二字で現生の信一念同時に報土往生の因が決定するという見方。
二つには、「即得往生」の四字を現生正定聚に住するという見方。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E5%8D%B3%E5%BE%97%E5%BE%80%E7%94%9F
に詳しく書かれています。


次に、相手の確認について。

・即得往生の往生は不体失往生である。

・不体失往生だけではありません。親鸞聖人が「即得往生」の「往生」を報土往生で教えられた解釈もあります。『教行信証行巻』に、

「必得往生」というは、不退の位にいたることをうることをあらわすなり。経には「即得」といえり、釈には「必定」といえり。「即」の言は、願力を聞くによって報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

と教えられているのがそれです。
『経には「即得」といえり』の即得とは本願成就文の即得のことです。
「願力を聞くによって」というのは「聞其名号信心歓喜」のこと。
「報土の真因決定する」というのは報土往生の因が決定するといわれるのですから、この報土往生は命が終わる時の往生を意味します。
「時剋の極促」というのは信の一念のこと。
つまり、「即得往生」の「往生」を報土往生とみられ、「即得」を聞即信の一念同時に報土往生の因が決定する意味とされる解釈です。

・不体失往生とは、「この世で往生が定まること」、「この世で正定聚になること」の両方である。

これについては、なぜこのようなことを聞かれたのか教えて下さい。残りの質問については、その後で考えます。

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詳細を有難うございます

質問させて下さい。
議論する上で問題になる可能性があることとして、不体失往生という言葉の意味があります。相手は不体失往生の意味をどのように理解しているのでしょうか?

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了解しました

・不体失往生とは、「この世で往生が定まること」、「この世で正定聚になること」
の両方である。

そうです。

と答えたらよいと思います。


そして、

即得往生の往生=不体失往生、正定聚
ということから、
若不生者の生まれる=即得往生の往生=不体失往生、正定聚の身に生まれる
と言わせたいのだろうと思います。
仮にそう言ってきた場合、どう返すのがいいでしょうか?

その解釈自体には、問題はないように思います。

「若不生者の生まれる=即得往生の往生」と教えられたお言葉はあるのか? ときいたら、相手は何と答えるでしょうかね。。。

ただ、18願には、報土往生は誓われていないのでしょうか?という質問をしてみて下さい。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。(尊号真像銘文)

「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。(唯信鈔文意)

のお言葉から若不生者の「生」は信楽を得た人を実報土に生まれさせるということが親鸞聖人の解釈です。
そこから派生して、実報土に生まれるのはこの世で定まるから、この世で正定聚に生まれさせるという不体失往生の意味にも取れます。
ところが、信楽に生まれさせるという解釈はありません。信楽をえた人を信楽に生まれさせるというへンテコな文章になるからです。
最終的には、信楽と正定聚は同じか異なるかという議論になるのでと思います。
あくまで会長の自説ではなく、親鸞聖人のお言葉を軸に議論するのがよいと思います。
勿論自覚はされている事と思いますが、議論の目的は勝つこと負けないことではなく、正しい親鸞聖人の教えを顕らかにする事です。お互い煩悩にまみれた身ではありますが、時折振り返って参りましょう。相手の方にもよくよくご確認下さい。

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「根拠の問題ではない」と言われたら、「それは根拠がないから、根拠を挙げられない」という意味ですか?
のように返すしかなくなってしまいますね。

他の点については、何か考えが浮かんだらまたコメントします。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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