「赤ちゃんは相手を見分けることができないから、泥棒に抱かれていても満腹なら笑っている」ほど、赤ちゃんは何も分かっていないのではありません

『教学聖典』7号に以下の設問があります。

問(36)
阿弥陀如来の慈悲をこの世の母親の慈悲にたとえ、我々を赤ちゃんにたとえるのは、なぜ危険なのか。その理由を六つ示せ。


この設問は二重に間違っていますので、指摘したいと思います。


まず、親鸞聖人は釈尊と阿弥陀仏が衆生を助けようとされているのを、父母が子供に注ぐ愛情に譬えて「慈悲の父母」と仰っておられます。

釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり
(高僧和讃)


『教行証文類』にも、仏の慈悲を母親や親の慈悲に喩えて教えられている箇所があります。

二つには念ずべし、慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。ゆゑにわれ極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。(行文類・往生要集引文より)

(現代語訳)
二つには、次のように仏を念じるがよい。仏は慈悲の眼で衆生を平等に、またただ一人の子供のようにご覧になる。だからわたしは、広く大いなる慈悲の心を持つ母である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。


たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。(信文類・涅槃経引文より)

(現代語訳)
たとえばあるものに七人の子がいたとしましょう。その七人の子の中で一人が病気になれば、親の心は平等でないわけはありませんが、その病気の子にはとくに心をかけるようなものであります。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものにはとくに心をかけてくださるのです。


「阿弥陀如来の慈悲をこの世の母親の慈悲にたとえ」るのが危険だと言うのは、親鸞聖人に対して「あなたは危険な譬を使っている」と楯突いているのです。

設問を変えて、
「阿弥陀如来の慈悲をこの世の母親の慈悲にたとえ、我々を赤ちゃんにたとえられることがあるが、実際にはたとえと合わない点がある。それを列記せよ。」
というようにすればまだよいでしょうが、何しろおかしな問題です。


次に、この問題の答えの4番目ですが、これに疑問をもつ母親は多いのではないでしょうか? 4番目の答えとは

○赤ちゃんは相手を見分けることができないから、泥棒に抱かれていても満腹なら笑っている。我々はそうではない。

ですが、赤ちゃんはそれほど単純ではありません。
恐らく高森会長は育児は奥さんや家族に任せきりで、まともに子供の面倒を見たことがないのでしょう。

子供をなめないで下さい。赤ちゃんでも、ちゃんと抱いている人を認識できますよ。満腹でも、違う人が抱っこしていたら分かって違和感を覚えるものです。

例えば、私は赤ん坊の頃から2歳位まで、母親以外が抱っこをすると大泣きしていたそうです。父親でもダメだったということですから、まして泥棒はどうでしょうか?
また、これは娘が赤ちゃんの時からのことですが、娘を実家に連れていくと必ず抱っこしている人の顔を確認するのです。そして、私や妻以外の、例えば私の母が抱っこしていると分かると泣くんです。月始めに帰省した時もそうでした。私の母親が、「この子は必ず抱っこしてる人を確認するよね」と言っていたのをよく覚えています。

些細な事と思う人があるかも知れませんが、浄土真宗の教えと親鸞会教義を比較すればするほど、根本が間違っていますから末節部分も間違いだらけなのです。そういうことを知って頂きたいと思います。
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この元ネタは、実は大沼法龍師の著書の中に出てくるものです。
大沼師は「無帰命安心の人が『阿弥陀仏は親であり、衆生は子供に例えられる。だから我々は黙って抱かれていればよいのだ』という言い方をするが、その主張はこういった点が正しくない」という文脈で書いている(つまり、無帰命安心の人が教えを都合よく解釈して座り込んでしまっている事に対する批判として書いている)のですが、
読解力のない高森会長は、大沼師が意図するところ、主張せんとする所を的確に理解する事ができず、
「阿弥陀仏を親に例え、衆生を子供に例える事自体が間違い」だと勘違いしているのですね。
これは高森会長の文章読解力の問題でもありますが、その根本はまさに、淳心房さんの書かれたように、親鸞聖人がお聖教にどのような例えを用いてみ教えを説かれているのかについて、高森会長が無知であるという事のあらわれ=会長の不勉強のあらわれでありましょう。

No title

他人から非難するなと言われると知恵があると言ったり、自分の信者が知恵をつけそうになると七高僧のご著書を読むなとか高森以外の解釈は間違いとか事前に防衛する。
これは操作支配型の人間のすることだと思います。
人の幸福が妬ましく、自分と比較できそうなものは下に見ないと満足しないのでしょう。
信心獲得まで付き合う気もなさそうです。
外から見たほうが会長のミココロの外観がよく分かってしまいます。

>名無し様

仰る通りです。
ご指摘の点、親鸞会はとても巧みです。内輪で傷を舐め合って、都合の悪い情報には触れないようにして、法の抜けた話を聞き続けていることを早く自覚してもらいたいところです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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