【再掲】法然聖人のお言葉

法然聖人のお言葉について再掲載の希望がありましたので、アップします。
親鸞会では親鸞聖人の本師である源空(法然)聖人がどのように仏教を明らかにされたのか、『選択本願念仏集』を元に少しも話がなされません。
それは、『選択本願念仏集』には親鸞会にとって水爆級に都合の悪い御文が並んでいるからです。
今回は若干の解説を交えながら、『選択集』で法然聖人はどのように阿弥陀仏の選択本願を明らかにされているか、見ていきたいと思います。なお御文が長くて読む気が失せるという方は、まず解説を一通り読んで、解説の通りなのか御文で確認してみて下さい。


わたくしにいはく、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ。(二行章)

専修正行とは本願の念仏、雑修雑行とは往生行としての諸善万行のことです。
雑行雑修の行者は千人いても一人も助からないので往生のためには諸善を捨て、百人あれば百人とも極楽に生まれさせると誓われた本願の念仏一行を専らにせよということを教えられたのです。


ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまは
ず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(本願章)


造像起塔、智慧高才、多聞多見、持戒持律などの諸行諸善をしなければ助からない本願ならば、ほとんどの者は救いから漏れてしまいます。そこで阿弥陀仏はあまねく一切衆生を平等に救わんがために、一切の諸行を選び捨て、念仏一行を本願の行として下さったのです。


しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。(三輩章)

本願に余行(念仏以外の善行)は誓われていません。それ故『大経』の三輩段には「一向専念無量寿仏」と説かれています。
「一向専念無量寿仏」とは、阿弥陀仏以外の諸仏や菩薩や神に仕えないだけでなく、念仏以外の諸行を交えないことも言います。念仏の他に余行を加えたら一向ではありません。諸行を廃して念仏一行を本願の行とするから一向と言うのです。


おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。(三輩章)

三輩段に往生のための行として念仏だけでなく諸行も説かれていることについて、廃立、助正、傍正の3つの解釈があり、いずれを取るべきか知り難い。善導大師によるならば、廃立の義がよいと言われています。
「諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く」
と明確ですね。


ゆゑに知りぬ、念仏また九品に通ずべしといふことを。二には『観経』の意、初め広く定散の行を説きて、あまねく衆機に逗ず。後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。いはゆる[[「汝好持是語」等の文]]これなり。その義下につぶさに述ぶるがごとし。ゆゑに知りぬ、九品の行はただ念仏にありといふことを。(三輩章)

『観経』には初めは詳細に定善散善の行が説かれていますが、後には定散二善を廃して念仏一行が勧められています。それが阿難付属の文に明確に現れています。それによって「ゆゑに知りぬ、九品の行はただ念仏にあり」ということを知ることができます。


また引くところの文(定善義)のなかに、「自余衆善雖名是善若比念仏者全非比校也」といふは、意のいはく、これ浄土門の諸行に約して比論するところなり。念仏はこれすでに二百一十億のなかに選取するところの妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億のなかに選捨するところの粗行なり。ゆゑに「全非比校也」といふ。また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。ゆゑに「全非比校也」といふ。(摂取章)

念仏は本願に選び取られた、至って易くかつ最も勝れた妙行です。対して諸善は本願に選び捨てられた、難行であり劣行です。それ故、念仏の功徳は、諸善のそれに比べたら全く比較にならないほど勝れていると教えられるのです。

では、なぜ釈尊は難行であり劣行として本願に選び捨てられた定散二善などの諸行を説かれたのでしょうか? その答えが次の御文です。

定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。(念仏付属章)

定散二善を説かれたのは、念仏が諸善に超え勝れていることを顕すためだと教えられています。「説かれたのは我々に実行させるためだ」と得手に解釈する前に、教えに忠実であってほしいものです。


知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。
いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。(念仏付属章)


釈尊が『観経』の流通分で阿難に付属されたのは諸善ではなく念仏でした。それは、念仏が本願の行であり、念仏往生が根機にかない、時機相応の法だからです。
対して諸行は、本願に誓われた行ではなく、根機に適せず、時機不相応の法だからです。
だから、随他意方便として説かれた定散の教えは、随自意真実である本願の念仏が説かれた後には還って廃されるのです。


はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。(三選の文)


そしてこのお言葉が『選択集』の結論と言ってもよい「三選の文」です。
「速やかに生死を離れようとするなら、聖道門をさしおいて選んで浄土門に入りなさい。浄土門に入ろうと思うならば、雑行をなげすてて選んで正行に帰しなさい。正行を修めようとするなら、助業をかたわらにして選んで正定の業を専らにしなさい。正定の業とは、往生が正しく決定する行業のことで、本願の御名を称えることです。本願を信じ念仏すれば、必ず浄土に往生することができます。本願で阿弥陀仏が誓われたことだからです。」

このように仰っています。『選択集』のどこを読んでも、法然聖人は諸行は廃して念仏一行を専らにせよとお勧めです。「善をしなければ信仰は進みません」などという邪説は、出ようがない教えられ方です。


他にも、親鸞会にとって水爆級の御文はありますが、長くなりすぎるのでこれで引用を終わります。親鸞会会員の皆様は、実際に『選択本願念仏集』を拝読してみて下さい。

親鸞聖人も、

『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。(『教行信証後序』)

(現代語訳)
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。

と教えられていますので、『選択本願念仏集』を拝読したらよいと思います。
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コメント有難うございます

私も諸先輩から色々と教わっております。
断章教学から抜け出そうにも、独学では限界があります。
その点、教学に詳しい人から聞けるのはとても有難いです。

こちらも、ブログを時折見させて頂いています。
更新、楽しみにしております。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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