【ツッコミ】七大経⑫-7(後生の一大事を心にかけよ)5ー文証に依らず自説を主張し、相手の主張をねじ曲げる古参の講師

本日も、浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い 七大経⑫-7(後生の一大事を心にかけよ)について、内容を区切りながら引用してツッコミを入れていきたいと思います。


こういうと

「他力念仏の人は報土往生、
 自力念仏の人は化土往生ということです。
 自力念仏の人は必堕無間などとは
 書かれていません。
 ならば、念仏さえ称えていれば、
 地獄に堕ちないのだからそれでいい、
 と思ってしまいますので、
 繰り返し繰り返し化土往生を
 誡めておられるのです」
  (体験至上の異安心の主張)

と、親鸞聖人は念仏を称えた者、
自力の念仏の人はみな化土往生できると
教えてゆかれた方で。
自力念仏の人には後生に無間地獄へ堕ちる
一大事はないという者がいる。

これが本当なら、大いなる自己矛盾に
気がつかないのだろうか。

体験至上の異安心の人は
善知識は三願転入を否定された方と
言いながら、
十九願を行ずる人、二十願を行ずる人は
化土往生ができる。
そういう人が一杯おったという。


以下、『飛雲』肝心な根拠が一切出せず、親鸞会理論の押しつけだけより引用します。

『往生要集』信毀因縁を前の問答も併せて再度出しておきます。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土にお
いては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。しかも諸師の所釈、繁く出すことあたはず。

『往生要集』報化得失
雑修のものは執心不牢の人となすなり。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生るるもの少なからず。ゆゑに経に別に説けり。実には相違せず。

これを『教行信証』化土巻に親鸞聖人は引いておられます。
また『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

『末灯鈔』2に
「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。
(中略)
仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。

『末灯鈔』12に
念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

『正信偈大意』
「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。


以上より明らかなように、自力念仏の者は化土往生するというのは仏説であり、善知識方の教えです。それを否定して「一切衆生必堕無間」を主張するのですから、O講師の書いていることは謗法罪に値し、そういう者は地獄に堕ちると教えられています。

さて、「体験至上の異安心の人は善知識は三願転入を否定された方と言いながら」とは誰が言っているのでしょうか? 誰が言っているか知っている方は、その人の文章を引用して教えて頂きたいと思います。
これだから、相手の主張を捻じ曲げていると非難されるのです。親鸞会批判者の多くは、親鸞会の主張する「三願転入の教え」を否定しているのであって、親鸞聖人の三願転入の御文はそのまま頂戴していると思います。少なくとも私はそうです。
それに、三願転入という概念は親鸞聖人までなかったことですから、例えば法然聖人や善導大師は肯定も否定もしていません。しようがありません。そういう歴史的背景も踏まえず、高森会長の説のみを正しいと信奉しているからいらぬ非難まで受けねばならないことをO講師はじめ親鸞会はよくよく自覚すべきです。



十九願、二十願が十八願の救いに
関係がないから、勧めてもいないのだろう。
勧めてもいないのに
なぜ、十九願・二十願を行ずる人が
一杯出てくるのか。


O講師の言う矛盾とは、
「18願一つ勧められ、19願・20願は勧められてもいないなら、なぜ19願・20願の行人が一杯出てくるのか? 19願・20願の行をやれと勧められているからこそ、19願・20願の行人が一杯出てくるのではないか」
ということでしょうが、そうではありません。

正確に言いますと、18願の救いには19願、20願の行信(自力諸善、自力念仏)にどれだけ励もうとも遇えません。18願の行信(他力念仏)は如来より回向される行信であって、19願・20願の「私→阿弥陀仏」というベクトルとは真逆だからです。そして、19願、20願の行信からは化土へしか往けませんから、化土を誡め報土を勧められています。つまり19願・20願を誡め、18願一つ勧められているということです。
ところが、どれだけ化土を誡め報土を勧められても、化土の行信に腰をすえてしまう人がいるのです。20願自力念仏と18願他力念仏の違いは表面上では分かりませんし、自力諸行往生も19願に誓われていますから、それら権仮方便の教説を真実と思って行ずる人が一杯出てくるということです。もし化土の行信に止まる人がいないならば、誡める必要はありません。
『歎異鈔』は「異なるを歎いて著された書物」だと説明されますが、筆者は何が異なることを歎いているのでしょうか。

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。

幸いにも念仏称えながら信心が異なり、親鸞聖人と同じく報土往生できずに化土へ往ってしまう者がいることを歎いているのです。一切衆生必堕無間を根底から覆す化土往生の”邪義”を説いている『歎異鈔』であるのに、『歎異抄をひらく』では化土往生の”邪義”について触れていないことが『親鸞会教義の誤り』一切衆生は必堕無間なのか11に書かれています。

高森会長も『顕正』を書いていた頃は18願一つ説かねばならぬ、常に虎の説法をしなければならぬと主張していたのですが、時代と共に教えが変化してしまったようです。高々50年で教えの根幹を為す部分が変化してしまう教えが、唯一絶対にして真実の宗教でないことは言うまでもありません。(つづく)
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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