真実信心のおもむき(1)ー南無阿弥陀仏の信は、ただ聞いたままの信

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 真宗の信心は、救いの手段や、付加物ではありません。親鸞聖人が、「教行信証」を著わされたのは、この信心の高調にあることで、涅槃の真因となり得るという高大な内容のものであります。つまり、救われたすがたを信心と仰せられるのです。
 さらにいえば、如実の信心は、仏になる因であり、迷悟昇沈の分ちはこの信心の有無であるとされています。いわゆる信心正因のおさとしは、真宗での要中の要であります。
 それといいますのも、仏の本願のお約束がそれだからであります。第十八願に「至心に信楽して我国に生れんと欲う」とあるのが信心です。このおことばは、「至心」と「信楽」と「我国に生れんと欲う」という三つのことばにしてありますから、三信といわれてあります。しかしなにかむつかしいことのように思われて、先人もいろいろと思案されております。
 しかし仏の大悲をよくよく聞かせていただいてみれば、決してむつかしいものであるべきではありません。すなわち「至心」とは「まこと」ということであり、「生れんと欲う」とは「浄土に参らせていただくことに決定する」ことですから、それは仏に救われたところの思いであります。それでつまり、「信楽」と、このもしくたのもしく仏のお救いに無疑となったことであります。わたくしの救いは本願に誓われ、み名にあらわされてありますから、み名のおいわれを聞かしていただくほかには何物もないのであります。信心のありかたはどれほど聞いても、それのまねをしてゆくのではありませんから、実際には信の説明はいらないようなものです。しかしそれでは信の如実、不如実がわかりかねるので、これも明らかにしておかねばなりません。
 この南無阿弥陀仏の信は、自分の心で考えてできた信でもなく、また自分の知恵で知ってできた信でもありません。ただ聞いたままの信であります。その聞くというのは何を聞くのかといえば、仏のみ名を聞くのであります。仏の救いの声を聞くのであります。それは「まかせよ救う」のお声ですから、その通りに聞き得られたのが信心です。

(p.297~p.298)
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信心とは

信心とは,自分の口からお出ましになる南無阿弥陀仏の声が,阿弥陀仏の「そのまま来いよ,助けるぞ」のじかの喚び声として聞こえたこと,聞こえていることををいうのでしょうか。まだ私には如実に聞こえていません。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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