真実信心のおもむき(2)ー仏願の生起・本末

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 釈尊は、「その名号を聞いて信心歓喜する」とさとされ、親鸞聖人は「聞くというは、衆生仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。これを聞という」とされてあります。み名を聞くというのは、み名は仏の本願の成就してあらわれたものですから、その本願の生起本末を聞くのであります。生起というのは、本願はだれのために起こされたのであるかということであります。それはひとえにわたくしのためであります。
 また、本末の本とは、わたくしのために起こされた仏の本願ということです。末とは、その本願の成就したことであります。すなわちそれが「なむ・あみだぶつ」のみ名であります。このみ名にはわたくしのための仏の本願がこめられて、わたくしを救わねばおかないという力となっていられます。これのいわれを聞き得られたのが信心であります。それで聞いたままの信心であるということは、信心はわたくしの案じたものではなく、仏のおまことがわたくしに届いてくだされたものであるというのであります。またわたくしの救われるということは、聞く一念でありますから、まことに早く定まるものであると仰せられてあります。また聞いたのでありますから、聞かせるものがその通りに届いたのです。だから、無念無想ではないのです。それゆえに、信心はみ名のおいわれを聞いた信心ですから、すなわちそれは、み名そのものであります。このようないろいろの尊いわけがあるのであります。
 これを要するに、信は無疑であるというのが最も穏当な言い方であります。不疑ではありません。除疑であります。わたくしの持っている計らい心がすっかり取り上げられて、仰せのままがすなおにいただかれたことであります。助かるものが届けられたことであり、よばれるものに遇うたことであります。歎異鈔の後序の上でいえば、弥陀五劫思惟の内容が「親鸞一人がため」であります。このわたくしが永劫救われないことが、弥陀の悲しみであります。弥陀の五劫思惟ということは、「それほどの業をもちける身」(蓮如自筆本)の罪業の深さをあらわしてあるのであります。つまり五劫思惟の内容がわたくしの上では機の深信であり、また法の深信であります。如来の願い場所は、わたくしが救われないというところにあり、本願のお仕事は、そこにいとなまれるのであります。この意味において、如来に見抜かれたわたくしが救われるということになります。こうしてこの救われたすがたが信心であります。

(p.298~p.300)
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平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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