化土巻は信前のことという言い方は適切か?

親鸞会在籍中、こういうことを聞いたことがあります。

『教行信証の前5巻は信後のこと、教行信証化土巻は信前のことが説かれている』

はたしてこの言い方は適切なのでしょうか?

以前『親鸞会教義の誤り』に『教行信証』の構成についてコメントした内容を一部書きかえて転載します。



教行信証の構成は、各巻の一番最初の【一・標挙】を見ただけでもお分りになると思います。

教巻:大無量寿経
真実の教 浄土真宗

行巻:諸仏称名の願(17願)
浄土真実の行 選択本願の行

信巻:至信信楽の願(18願)
正定聚の機

証巻:必至滅度の願(11願)
難思議往生

真仏土巻:光明無量の願(12願) 寿命無量の願(13願)

化身土巻:至心発願の願(19願) 邪定聚の機、雙樹林下往生、『無量寿仏観経』の意なり。
至心廻向の願(20願) 不定聚の機、難思往生、『阿弥陀経』の意なり。

18願を、11願・12願・13願・17願・18願に開かれて、真実の教・行・信・証・真仏・真土を明らかにされたのが真仏土巻までの内容です。

ところが、願海には真実と方便があり、方便の人(19・20願の人)は真実報土へは往生できず、方便化土にとどまります。

そして今は方便の世界と、なぜ方便の世界にとどまるのかについて明らかにしましょう、ということで化身土巻が説かれます。

18願真実の世界を白、19願・20願方便の世界を黒とすると、白を際立たせるために黒を持ってきて比較するという説き方です。



親鸞聖人のお勧めは、このブログで何度も書いている通り、18願です。

化土巻を書かれたのは、19願・20願が廃捨すべきものであることを明らかにするためです。

それはそのまま18願一つを勧めるためです。


ところが、

『教行信証の前5巻は信後のこと、教行信証化土巻は信前のことが説かれている』

ときくと、信前の人に必要な教え(実行しなければならない教え)が化土巻に説かれていると思ってしまう人がいるのです。

このように思うのは間違いですが、そう思わせるように会長は話をします。


それが『要門』という言葉です。要門の『要』を『必要、重要、かなめ』と説明することにより、私達に必要、重要、やらねばならないかなめの教えと受け取らせるのです。

要門とは19願の教えの事ですが、19願とは自力諸行往生を誓われた本願です。

これは聖道門の人を浄土門に導くために説かれた仮の手立てですから、『化土巻』には19願の教えを「浄土の要門」と書かれた直後に「方便権仮を顕開す」と言われ、要門は権仮方便の教えであることが分かるのです。

「願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。」(教行信証化土巻)

(浄土真宗で用いられる方便には善巧方便と権仮方便がありますが、それについて知りたい方は、『21世紀の浄土真宗を考える会』の「善巧方便と権仮方便」「方便といふこと6」などをご覧下さい。)

既に18願の他力念仏往生が真実であると親鸞聖人から教えて頂いた私達には、要門の教えは「不要」であり廃捨されねばならない教えなのです。


何重にもトリックが仕掛けられていることに感心させられますが、会長のトリックにだまされず、ひたすら「只今私を救う」阿弥陀仏の本願(18願)を聞いて頂きたいと思います。
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はじめまして

はじめまして、飛雲と申します。
要門とは、聖道仏教と浄土仏教の分岐点ということですね。会長は、無知な上に詐欺師ですから、トンデモ解釈をしているのです。

私もブログを作りましたので、もしよければ、リンクして真実の教義を互いに明らかにしていけたらと願っています。

No title

化身土巻に書かれているのは、十八願を疑惑し諸善や自力念仏に執するとどうなるかと言うことを示し、それをやめさせるためであって。それをやらなければ十八願を信じられないと言うことではない。
喩えるなら交通教本に書かれてある交通違反の事例とその罰則規定に関する記述のようなもの。だから化土巻にかかれてあるように実行しない救われないと教えることは。あたかも教習所の教官が
「交通教本に書かれている違反を逐一犯し、罰則を食らわなければ本当の安全運転はできない」と言っているようなもの。
皆さん、こんな教習所があったら通いますか?

コメント有難うございます(^-^)

> 飛雲様

リンクはらせて頂きました。お互い自信教人信の道を歩ませて頂きましょう。



> ホシ様

鋭いツッコミが入りました(;^_^A

仰る通り化土巻は、十九願や二十願の行信を勧められるために説かれたのではありません。
会員は未だ十九願を必ず実行せねばならぬ教えと信じ込み、深いマインドコントロールから抜け出せずにいます。

ただ一つだけ、「交通教本に書かれてある交通違反の事例とその罰則規定に関する記述ようなもの」という喩えについて補足をさせて頂きます。

定散二善は、釈尊が観無量寿経に説かれた阿弥陀仏と浄土を観る善です。
如説に実行すれば化土往生できる素晴らしい善行であり、悪ではありません。
ただ、定散二善は横出の教えであり、成仏までに長い時を費やす漸教です。
親鸞聖人はこの横出であり漸教である定散二善ではなく、また自力念仏でもなく、横超であり頓教である十八願他力念仏を勧められています。

聖人は、定散の自力心に迷い、他力金剛の信心に昏い者を悲しまれていますが、定散二善自体は悪ではなく、その結果は罰則のような苦果ではありません。
せっかく十八願の法門がありながら十九、二十の願にとどまっては大利を失う為、化土を誡め報土を勧められているのです。


それにしても親鸞会は六度万行、定散二善とは名ばかりの人集め・金集めに狂奔し、謗法罪・五逆罪・悪口・妄語を平気で作る団体ですから、その結果は世界のどの罰則よりも遥かに恐ろしいものになるでしょう。
会員の皆さんには早くマインドコントロールから解き放たれ、過去の行いを懺悔して、十八願の救いに直入して頂きたいと念ずるばかりです。

No title

返信ありがとうございます。確かに私の出した比喩は不適切であったかもしれません。
しかしながら、「やらなくてもいいことを親鸞聖人がお書きになられるはずがない」というかの会の論理に対し、それを無制限に適用すると。

>>交通教本に書かれている違反を逐一犯し、罰則を食らわなければ本当の安全運転はできない

と言っているのと同じことになるよと言うことを伝えるためにあえてあのたとえを用いました。

> ホシ様

仰りたいことはよく分かります。

あくまでも定散二善、六度万行、宿善という言葉を根拠に、人間の倫理的思考を利用して善ではないこと(親鸞会への献金、勧誘)を善と教えて、やらねば信心が獲られないように説く彼らがいけないのです。

18願の救いを求める人には必要ありませんが、定散二善は釈迦の教法ですので、補足をさせて頂きました。

ちなみに既にご存知かと思いますが、報土を米に、化土をひえに例えた話もあります。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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