真実信心のおもむき(4)ー二河譬、二種深信

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 例の二河譬において、二河の間にある白道を、煩悩の心の中に届いた信心とも釈され、また仏のご本願とも釈されてあります。これからしても、ご本願の仏のおまことがそのまま信心なのであります。つまり、信心とは仏のおまことのほかにはないと示されているのであります。決して凡夫の作り出すようなものではありません。
 また、信心というのは、わたくしがこのまま救われるという信であります。わたくしとはどのようなものかといえば、煩悩悪業にみちみちた悪人であります。虚仮不実であって、たのむべき何物をも持たない者であります。二河譬でいえば、群賊悪獣と、水火二河とに滅ぼされるよりほかに道がなく、永遠に闇暗の悩みから出ることを知らない者であります。仏の助ける、救うといわれるのはこの者のありだけであります。どうにもすることのできないこの者を救ってくださるのであります。二河譬の三定死のゆきづまりにいるのであれば、わたくしは悶絶しなければならないありさまであります。そして、何物でもつかまえて助かりたいとあせるばかりであります。ところが救いのみ手は、西の岸から「そのままを」と、かかってくだされたのであります。その救いのままに救われてゆくところに、本当の安らぎが与えられるのであります。すなわち救いのままに救われて、白道の上を水火二河におそれず、歩ませていただくことを得るのであります。だから自力の計らいを全く要しないで、ひとえに仏の救いに計らわれてゆくのであります。これが信のすがたであります。この信のすがたをくわしく示されたのが、善導大師の二種深信であります。すなわちその著、「散善義」には、

 一つには決定して深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなしと信ず。二つには決定して深くかの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受し、疑いなくおもんばかりなく、かの願力に乗じて定んで往生を得ると信ず

とあります。これは一つには二つにはとありますが、二度思うてみるということではなく、あさましい自分がこのままに仏に救われると、自分の計らいをうちすてられて、仏のお力に計らわれるほかはないということなのであります。これは七高僧方を仰ぎましても、また親鸞聖人におきましても、すべてみな煩悩悪業に満ち満ちたすがたのままが、本願に救われ、仏に助けられることをおよろこびになっておられるのであります。わたくしの悪業煩悩のままをいとうことは、どのようにゆきとどいたお救いなのでしょうか。もしも何とかならねばいけないとあったならば、とてもどうにもできないのですのに、このままを救ってくださるのでありますからこそ、ここで今、わたくしの一切の問題は解決しおわるのであります。

(p.302~p.304)
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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