真実信心のおもむき(5)ー三不三信の教え

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 それでは次に、その信心が正しいかどうか、ということのお示しについてうかがわねばなりません。
 親鸞聖人の「正信偈」に「三不三信誨慇懃」とありますが、この三信というのは淳心、一心、相続心であり、それに反するものが三不信であります。つまり三信ということがまことの信心であり、三不信はまことでないものということであります。ここに信心の正と不がはっきり出されてあります。そこで三信の内容である淳心というのは、淳いしっかりした信心のことで、この反対は薄い信心であります。薄い信心とはどのようなすがたかといえば、若存若亡と示されてあります。若存若亡は「存せるがごとく、亡せるが若き」ともよませてあり、「あるときはさもとおもふ、あるときはかなふまじとおもふなり」とも釈されてあります。これについて前のようによめば「あるかないかわからないような信心」というのであり、後のようにみれば、「昨日は助けらるることと思えたようであり、今日はどうであろうかと案じている」ということになります。しかしけっきょくは同じことで、このようなありさまが淳い信心がないということであります。これに反して、仏のお救いに対して本当に安心の身にならせていただいたのが、淳い信心であります。また次の一心は、信心が一つに定まったというのであります。お助けに助けられることに定まったのであります。その反対は自分の心にえがいた信心であります。それを無決定といわれてあります。自分は助けていただかれるのかどうか、さっぱり定まらない。それが疑いであります。相続心とはいただいた信が続くのであります。しかし、わたくしたちの心は水の流れるように常に動いており、眠るときもあります。一つのことばかりを思ってはおられません。けれども信は相続しておりますから、いつもお助けは決定しております。もしわが心でおしかためているのであれば、たとえ続いているとしても、それは不相続心であります。それで不相続心のことを余念がまじわるといわれてあります。真宗の信心は、淳であり、一であり、相続するものであります。このようにいえば信心に何かたくさんの条件や、属性ができて、たいそうむつかしいもののようにみえますが、決してそうではありません。ただ、わたくしが仏に救われることが、もしもほんとうにわたくしのものになったならば、決して若存若亡でも、無決定でも、余念がまじわることでもありません。ご縁があって真宗のみ教えを聞いてはいましても、自分は救われるかどうかわからず、ぐずついているようであれば、それは仏のお救いがまだ自分のものになっていないといわねばなりません。いくら内容が知れたといっても、概念にとどまっていてはなりません。ここはとても大切なことですから、よくよく聞かせていただかねばならないところであります。

(p.304~p.306)
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「たもつ心もわれとおこさず」ですね。
有り難いです。
南無阿弥陀仏

>Rudel様

そうですね。この信心を自分でたもたねばならないのなら到底私のような者には不可能です。阿弥陀仏の徹底した大慈悲にはかたじけないとしか言葉がありません。
南無阿弥陀仏
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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