真実信心のおもむき(6)ー信心と歓喜の関係

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 さらにいえば、真宗のおみのりを聞くわたくしたちは、とかく喜べるとか喜べないとかいうことを気にすることがあります。喜びのことを歓喜といいますが、それは法の上のよろこびですから法悦ともいわれています。この歓喜は法を聞く者が望むものでありますから、次に信心と歓喜の関係をうかがっておくべきであります。
 真宗では信心のことを、歓喜といわれた場合もあり、信心そのものでなくして、その信から出たよろこびをいわれた場合もあります。信心そのものを歓喜といわれた場合は、仏に救われて、安心した心持であります。信心にはこの安心した心持がありますから、それを歓喜といわれたのであります。この場合には、感激的な喜びとは別にして考えなければなりません。たいていの人が望んでいるのはこの感激の上のよろこびであります。これを望むのに、喜びそのものを望む者もあれば、また信心があれば喜びがありますから、その喜びから逆に信心のある無しをたしかめようとして、喜びを望む者もあります。喜びはだれしも望むことでありますが、それで信心のあるなしをたしかめようとすることは、信心が本当にたしかでないからの計らいであります。信心には必ず喜びがつきものですが、喜びの有無をもって信心をとやかくいうことは、思いと実際とが異なるものであることを知らねばなりません。
 親鸞聖人の場合では、歎異鈔で唯円が喜ばれないと同じように喜べないとか、仏になることを喜ばないとか申されていることもあります。しかしそれかと思えば、「よろこばしいかな心を弘誓の仏地に樹て」とか「慶喜いよいよ至り、至教いよいよ重し」といって、大層よろこばれてあるようです。そうすると喜ぶのが真実か、喜ばないのが真実かといえば、いずれも真実であります。実際は、よころぶべきことを喜ばないのがわたくしたち人間であります。煩悩のあるものはみなその通りであります。その喜ばないのに気づくとき、その者を救い給う仏のご恩がいよいよ仰がれ、その広大なご恩を喜ばないわたくしの上に、かかってくださるご恩を知れば、喜ばずにはいられないのであります。しかし、その喜びは信心のところから出てくるもので、その有る無しは問題ではありません。わたくしが仏に救われるかどうか。仏の救いはわたくしのものであるかどうか。この信心の問題さえ解決すれば、喜ばないところに喜びがあり、喜ぶところに喜ばないことを知るという、信の妙趣を味わうことであります。世間の例でもお酒を飲めば、歌ったり舞ったりしますが、飲むことを忘れて歌や舞いだけを求めることは意味のないことであります。いたずらに喜ぶことをあこがれて、仏のお救いを聞かないことは、筋道のはずれたことであります。蓮如上人も「如来もよろこばは、たすけ給わんとのお誓いにあらず、たのむ衆生をたすけ給わんとの本願なり」(蓮如上人一期記)とも仰せられています。

(p.306~p.308)
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平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
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ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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