【検証】「おほよそ八万四千の法門は」(一念多念証文)のお言葉(1)

親鸞会で善の勧めの根拠として挙げているのが、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。


のお言葉ですが、果たしてこれが18願の救いを求める人に諸善を勧めたお言葉になるのか、改めて検証したいと思います。


まずこのお言葉は、以下の文章の続きとして書かれています。

しかれば『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。
この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。
「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。


ここで親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願(18願)こそ釈迦はじめ諸仏出世の直説であることを述べられています。そして、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。


と続くのです。
18願の他力念仏往生の法門に対し、釈尊が説かれた八万四千の法門は「浄土の方便の善」であり、要門仮門であることが教えられています。つまり、本願一乗に対し、そこに導く為の権仮方便の教説であることを上のお言葉では教えられているのです。要門が権仮方便であることは、『化土巻』に

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。
願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。


とあることから明らかです。では、「浄土の方便の善」とは何なのでしょうか? これについても『化土巻』に、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

とあり、観経の定散二善・三福の教えは、「如来の異の方便」であると教えられています。つまり、釈尊が本願一乗とは異なって説かれた方便の教えであるということです。並列して、「欣慕浄土の善根」と教えられてもいることから分かるように、

「浄土の方便の善」=「如来の異の方便」=「欣慕浄土の善根」

です。つまり、浄土の方便の善とは、浄土を願い慕わせるための善ということになります。19願文でいえば、修諸功徳の善を「至心発願欲生」の心で修することが大事なのです。阿弥陀仏の浄土に生まれたいという願いを発して善を修めるので、浄土を願い慕わせるための善になるのです。これが、19願、観無量寿経の顕説です。未だ浄土門に入っていない者に、「行っている善を浄土に振り向けて実行しなさい、そうしたら阿弥陀仏は往生させて下さいますよ」と説き、浄土を願わせるのです。すなわち、浄土門に入る要の教えですから「要門」と言われるのです。

しかし、浄土の方便の善では、果は方便化身土への往生です。ですから、上のお言葉では、「二善・三福は報土の真因にあらず」と説かれるのです。

方便の行信により、方便化身土に往生する。
真実の行信により、真実報土に往生する。


当然なことです。
このことをハッキリと『化土巻』の観無量寿経の隠顕について説かれた最後に、

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。

と説かれ、要門の行を「雑行雑心」「雑行専心」「専行雑心」「専修専心」「専修雑心」「雑修雑心」と六つ並べられて、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因、すなわち方便化土に生まれる因であると結ばれています。しかも、それらの行信を修める行者を阿弥陀仏の光明は照らし摂めないことも教えられています。
つまり、観無量寿経の定散二善は化土往生の因であり、それを修める行者を阿弥陀仏は照摂なされないので、報土往生のためには雑行を捨てよというのが親鸞聖人の教えです。そして、真実報土の因である真実の信を教え勧めていかれたのが親鸞聖人です。

このことを踏まえれば、「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」と教えられているのは、本願一乗に入るのに要門の行信を実行しなさいと説かれているのではないことは分かると思います。要門の行をどれだけ実行しても、できたとして、結果は化土往生なのですから。

そもそも本願一乗の「一乗」という言葉の意味が理解できていれば、他の乗を要しないのが第18願であることが分かるのです。一とは、唯一無二、乗とは教えということです。勿論、仏教ですから目的は成仏です。成仏するに、要門という他の乗(教え)が必要ならば、本願一乗とは言われないのです。

じゃあ何のために他の教えを説かれたのかと思うかもしれませんが、それは本願一乗が真実の法だと聞いてもそれを受け付けない、求めようともしない人を導くためです。それが、未熟な機を導くための随他意の権仮方便の教説ということです。本願一乗とそれ以外の権仮方便の教えの関係を上の『一念多念証文』のお言葉では教えられているのです。(つづく)
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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