【検証】「おほよそ八万四千の法門は」(一念多念証文)のお言葉(2)

今回は、親鸞聖人が要門の行信を勧めておれれるのかどうか、もう少しお言葉を挙げて見ていきます。

『一念多念証文』の別の個所では、

「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はみなといふなり、「不論」はいはずといふこころなり。「照摂」はてらしをさむと、「余の雑業」といふはもろもろの善業なり、雑行を修し雑修をこのむものをば、すべてみなてらしをさむといはずと、まもらずとのたまへるなり。これすなはち本願の行者にあらざるゆゑに、摂取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。

とあり、もろもろの善業(雑行、雑修)に励むものは全てみなてらしおさめられず、まもられません。これは本願の行者でないから、だから摂取の利益にあずかれないのだと、親鸞聖人は誡めておられます。他にも『唯信鈔文意』では、

「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。

と仰って、八万四千の法門は自力の善根であるから本願の実報土には生まれられないと嫌われる行であると教えられています。同じく『唯信鈔文意』には、

雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

とあり、定善・散善を修める者は化土へ止まるから誡め、真実報土にすすむ他力の信心(18願の三信)を勧めておられることが分かります。


親鸞聖人は本願一乗の法門に対して、聖道門、要門、真門などの教説は、未熟な機を導いて本願に入れしめる権仮方便であるというように大分穏健な説き方をされていますが、師である法然聖人ははっきりと「これは捨てるべきものだから捨てよ」という廃立で説かれています。『選択本願念仏集』では、

念仏はこれすでに二百一十億のなかに選取するところの妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億のなかに選捨するところの粗行なり。

とあり、定散二善などの諸行は阿弥陀仏に選び捨てられた粗行であると言われています。親鸞会では、「一向専念無量寿仏」を阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に向かず、弥陀一仏に向くことと教えていますが、これでは説明が不十分です。法然聖人は、「一向専念無量寿仏」について、

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

と教えられ、「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」と、諸行は廃し念仏を用いることが「一向」だとハッキリ教えられています。親鸞聖人も、法然聖人のこの「一向」の教えられ方を受け継がれています。『一念多念証文』に、

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と教えられているのがそれです。

ではなぜ釈尊は定散二善という本願にあらざる行を説かれたのかという問に対して、法然聖人は、念仏が諸善に超え勝れていることを明らかにするためだと言われています。

問ひていはく、もししからば、なんがゆゑぞただちに本願の念仏の行を説かず、煩はしく本願にあらざる定散諸善を説くや。
答へていはく、本願念仏の行は、『双巻経』(大経)のなかに委しくすでにこれを説く。ゆゑにかさねて説かざるのみ。
また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。


『選択本願念仏集』は至る所に「諸行を廃して念仏一行を専らにせよ」ということが繰り返し書かれていますが、親鸞会からすると、これは定散二善の実践を否定し、19願の御心を破壊する謗法の書ということになるでしょう。しかしその『選択集』を親鸞聖人は、

『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。
真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。 まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。


【現代語訳】
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。

と絶賛しておられます。この法然聖人から教えを頂いておられた親鸞聖人と分かれば、定散二善などの諸行を勧めておられないのは当然のことです。「見るもの諭り易し」という親鸞聖人の仰せに従って、法然聖人のお言葉をそのまま拝読すればよいのです。

以上、長くなりましたが、「おほよそ八万四千の法門は」(一念多念証文)のお言葉の検証を終わります。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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