信心の利益について(2)ー本当の意味での現世利益

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 聖人の現世利益和讃は、素雑に見ますと、世間でいわれるような、動物的物質欲や、利己的本能欲を満たそうとして、それを奇跡的に要求しようとする利益が与えられるように受けとられますが、これは決してそのようなことではありません。ここに聖人の批判と啓蒙が光っております。この和讃は十五首ありますが、十二首までが金光明経によられています。金光明経ははじめの四品が本論で、おもにこれに基づいて示されるのであります。和讃の上でも、名号を称えれば、いろいろの災難を除くとありますが、「除く」というのは現象をこえさせていただくことであります。このお経に説かれてある般若の実践は、災難をこえるということだからであります。和讃のおことばでは、一般の利益のように見えますが、これはその時代の表現を通して仰せられたまでのもので、「こえるぞ」という思召であります。単にことばに固定しては、真意をあやまりますから、よくよくうかがわねばならないところであります。
 だいたい、道徳はいかになすべきかの行為の問題であります。すなわち善、悪、正、邪の問題であります。ところが仏法は、いかに生くべきか、もっといえば何によって生くべきかの問題であります。単に生きるだよでは、生自体に死を持っていますから、十分とはいえません。すなわち生の解決は死の解決を持たねばなりません。それゆえに生死をこえるところに、生きる生き方が出てまいります。それがさきにいう正定聚であります。世間の現世利益のように災難をよけるだけなら、不安が横たわっております。迷いは不安から出ます。生死の壁が突き破られるところに、迷う必要がなくなります。だから病気になれば病気をこえ、災難にあえば災難をこえて、すっきりとした生活をさせていただくのが念仏行者の幸せであります。お与えの名号から逃げられない。念仏はそれであります。「なむ・あみだぶつ」を称えるというのはどういうことか。呼ばれるものにあうことであります。「真宗念仏遇いがたし」とありますが、そのあい難いものにあわしてもらい、今すでに助けられるものが届けられたのであります。この意味で称えるということも名号を聞くということであります。
 要するに、本当の意味での現世利益は、真の信心の人において得るところのめぐみであります。すなわち如来より与えられた正定聚としての法悦の余徳が生活に及び、社会に広まってゆくのであります。神仏の守護は、正しい信心によってこそ得られるものであります。単に人間の欲望満足のために、神仏を利用しようとすることは、ふかい反省を要することでありましょう。

(p.312~p.314)
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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