【ツッコミ】間違った「要門釈」の解釈ー間違った根拠のない解釈(1)

正しい真宗教義の伝承のためにというブログがあります。

「浄土真宗の伝統教学を勉強しましょう。
御本典は何度も拝読しましょう。」
などと書いてありますが、親鸞会教学に染まっている講師部員か誰かが運営していることは間違いないでしょう。他の誰でもなく著者本人がきちんと浄土真宗の伝統教学を、親鸞会教義から離れて学んでいただきたいものです。さて、

間違った「要門釈」の解釈という記事では、当ブログを挙げて間違いだと批判しています。内容を抜粋してみると、

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真偽検証   http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-165.html
「化身土文類では、まず【要門釈】にて十九願について述べられ、
十九願の行信によって浄土の要門・方便権仮が顕開されていること、
私達には定善・散善ができがたいこと、阿弥陀仏は余の雑業の行者
を照らし摂めないことを教えられています。その後【真門釈】にて」云々

間違い  解釈が途中で終わっています。

要門釈の結論は
「仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。
仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。」です。
「十九願の善のすすめがあってよかった」と言われているお言葉。

十九願を通らねば、信罪福心(因果の道理を信じる心)は起きませんから
難思往生をねがうことはできません。

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と書かれています。


まず、ブログの著者が引用した記事には書いていませんが、【ツッコミ】”三願転入の教えはない”という邪説(3)ー親鸞会の断章早とちりがここにも出ていますのエントリーでは、梯實圓師の解釈を元に「仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。」まで解説をしています。参考までに該当箇所を引用しておきます。

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『化身土文類』では
・19願の行信の結果は方便化土である
・定散二善は「欣慕浄土の善根」である
と教えられていたことを踏まえて、要門(19願)について教えられた結論を見てみると、

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

と仰り、阿弥陀仏の光明は19願の行者を照摂しないことが教えられ、「仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。」と続きます。19願は浄土を慕い願わせる方便の願だと見ておられ、方便の行信をやりなさいと勧めてはいません。

上のお言葉の意味を、『顕浄土方便化身土文類講讃』(梯實圓著 永田文昌堂)377-378頁から引用します。

さて要門自力の行の根源である第十九願について「仮令の誓願まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり」といわれたのは、第十九願は阿弥陀仏が設定された方便の願であり、それを開説された『観経』は釈尊が未熟な機を誘引する方便として浄土を忻慕せしめられた権仮方便の経であることを確定された言葉である。「仮令の誓願」の「仮令」とは、第十九願に臨終来迎を誓うときに用いられた言葉で「たとい」と読み、「かりに」「もしも」の意味を顕している。しかし、「かりに」「もしも」から転じて、「おおよそ」「たいがい」の意味に用いられる。さらに形容動詞として「かりそめのこと」、「いい加減なこと」の意味に用いられていた。今は、「かりに」施設された法門であって、究竟の真実ではないことを顕わす言葉として用いられていると見られたのである。第十九願の法義は、真実の報土に至る道を示されたものではなくて、未熟な機を導くための権仮方便の法門を誓われていたから「仮令」という方便を表す言葉が使われていたことの意味がよくわかったというのである。「仮門の教」とは、定散二善という権仮方便の行法を説く経典ということであり、「欣慕の釈」とは、「散善義」の三心釈で『観経』の内容を、善導大師が「また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと」と説かれていたことを表している。『観経』は、聖道門の人々に浄土の依正二報を説いて、浄土を忻い慕わせ、誘引するために説かれた権仮方便の教であったことがよくわかるといわれるのである。


このように、「仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな」の前後を拝読すれば、親鸞聖人が19願を勧めておられるかどうかは分かるのですが、一部分だけ取り出して自説の根拠にするから、断章取義だといわれるのです。

また、19願では、臨終来迎を期待しなければ化土へも往けません。平生業成の教えからは、臨終来迎の教えは出てきません。平生業成の教えだと言いながら、中身は臨終来迎の教えにすり替わっていることに会員の皆さんは早く気がついて下さい。
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一つの記事だけではなく、もっとよくブログを読んで頂きたいものです。
それにしても、このブログは「仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。」の前にどんな解釈があるのか全く説明がありません。解説が途中で終わっているのが間違いなら、一部分を断章して獲信のため(因縁として)の善のすすめの根拠としているのは大間違いです。

(つづく)
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牧〇氏、ひとりでいったいいくつblog持ってんでしょうか。
「アンチはコテハン全敗」などと言いますが、自分が負けまくって一人何役もやっている惨めな現実を何とかして欲しいものです。

自業自得の救済論

>十九願を通らねば、信罪福心(因果の道理を信じる心)は起きませんから難思往生をねがうことはできません。

これって、もう無茶苦茶ですね。
罪福とは果の上でいうので、因でいえば善悪のことです。
つまり、善因楽果、悪因苦果の自業自得の因果を信じて、「横截五悪趣」(大経)という仏智を疑っている状態が信罪福心です。
信罪福心を、因果の道理を信じる心などと言っているようでは、全く浄土真宗の本願力回向のご法義ではありません。こういう人たちは何を言っても、蚕のように因果論で自らを「蚕繭の自縛するがごとし」(論註)なんでしょうね。

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり (誡疑讃)

>がすしつがかり様

何とか親鸞会が負けていないように装うのが著者の仕事なのでしょう。彼を始めとして親鸞会の詭弁には呆れるの一言です。

>林遊@なんまんだぶ様

親鸞会教義を赤裸々に語ると、「雑行をすてるために雑行をせよ、雑修をすてるために雑修をせよ、自力をすてるために精一杯自力で求めよ」といったものです。会員は、往生についてと、生活についてを完全に混同し、善で救われるのではないけれども善をしなければ信仰(?)は進まず助からないと考えているのです。トータルで考えたら善が救われる必須条件になっていて、善が間に合って助かることになります。それをあれこれ屁理屈をつけて誤魔化しているだけです。
そんな親鸞聖人の教えに反した邪説を真実と信じて聞いている会員さんは、残念ながら自業自得の道理に縛られて、本願の名号を聞き受けられずにいます。早く気づいてもらいたいです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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