真宗の安心(5)

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 しかるに安心を領解いたす場合に、いろいろの疑問が起りますが、いま二つのことを挙げておきます。
 (一)悪業煩悩を嫌わずに、万善諸行を廃捨するのはなぜかと申しますと、仏法は転迷開悟の法で、私共の迷いの病を治して、さとりの身となさしめて下さることにあります。だから、煩悩悪業は病であり、善根功徳は薬のように思われます。ところが病が軽い時は、自力の善根で治るかもしれませんが、重病となれば自分の手で行う治療では間に合わなくなり、名医の投薬に従わねばならなくなります。今やそれの如く、私共は難治の重病人ですから、自力の計度の治療法をすてて、弥陀のなさしめ給うままに全托すべきであります。しかもこの場合病の重いのはかまわないが、自己治療は大きなさまたげとなります。だから煩悩を嫌わずに、かえって諸善を嫌うのです。その理由を詳しく申してみます。
 そのわけとして、先ず(一)転迷開悟の上について当然な方法であると言えます。これについては、悪業が諸善より勝れているというのではありません。悪を嫌わないのは、弥陀の上に妙薬があるからです。しかも諸善を嫌うのは、妙薬を頂かないで売薬を服用するからです。また(二)名号の妙薬こそが下凡の重病人の適薬であり、これ以外のものはどんなものでも要らないからです。御文章には「何の不足ありてか、諸行諸善に心をとどむべきや」と申されてあります。また次に、(三)仏法の要である安心が純一でないことを誡められるのです。このような訳によって、万行諸善を廃捨するのであります。
 (二)また次に疑問の起りますのは、仏恩報謝のために、称名一行だけをすすめられています。ところがなぜ世間道徳を守ることを報恩にされてないのかと申しますと、これは万機に通じて不断に行うことの出来る主なものについて示されるのであって、決して他を排して称名一行につくのではありません。例えば沢山のご馳走を出しながら、御飯を召し上って下さいと言うのと同じことです。前三後一の助業は必ず称名に任運随伴するものです。前三後一がありながら称名相続というのです。世間道徳を守るまでを報恩の行として、掟の中においてみるのです。また念仏行者は必らず、その人の程度相応に誡慎があるべきものです。ご恩を受けている如来の大悲行を助揚させて頂く上に於て、自行の浄化は進んで考えるべきは当然のことであります。

(p.81~p.82)
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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