【考察】自力の心を捨てようと方便の善に励む人の気持ち

親鸞会教義から抜けられない理由は、もちろん高森先生信心があるからに間違いありません。しかし中には、それに加えて自力が廃るまでは方便の善を修めて信仰(?)を進めなければならない(あるいは宿善を厚くしなければならない)と考えている人も多くあると思います。
本来、阿弥陀仏の救いにあずかるに我々が「どうすれば?」と方法論を論ずる余地などないのですが、本日はそうやって信仰(?)を進めて(宿善を厚くして)助かろうとしている人の気持ちを考えてみたいと思います。

自分のかつての思考も思い出して考えてみるに、親鸞会教義に基づいて善(盗作、不倫、偸盗、妄語、偽装勧誘、などはとても善とは言えませんが…)を励んでいる人は、

「さすがの阿弥陀仏といえどもただいまの私を救うことはできない。だが、善をして信仰が進んで微塵の善もできない極悪人と知らされた私は救って下さる」
「今は阿弥陀仏に選ばれる(救われる)自分ではないが、善をしていくことで阿弥陀仏に選んで(救って)頂ける自分になる」
「一切経の99%は善の勧め。その善の勧めが弥陀の救いと無関係であるはずがない」


というように考えているという気が致します。これらと全く異なった考えをお持ちな会員さんは是非ともご意見を伺いたいところです。ただ、救いを求めて善に励むということは、善が救いに何らかの形で役に立つと考えていることは間違いないでしょう。「善が救いに何らかの形で役に立つと考えている」とは、自分の修めた善では助からないが、一念の決勝点まで進むのに必要だとか、地獄一定の自己が知らされるにはしなければならない、などと考えているということです。

ここでまず疑問なのが、「ただいまの私」と「善に励んでいった私」に、何か決定的な違いがあるのかということです。
例えば「善に励んでいった私」が報土往生できるような善ができるようになったならば、それは決定的な違いです。しかし、末法の今日、せいぜい100年の人生で報土往生できるような善は到底不可能です。
「ただいまの私」も、「善に励んでいった私」も、自力では生死を出離できないという点では全く変わりません。じゃあ「ただいまの私」と「善に励んでいった私」で何が違うかというと、それは地獄一定の自覚の有無だと会員さんは考えているのではないかと思います。そして、

「地獄一定の自覚こそ機の深信である」

と信じているように思われます。


こうした考えは様々な点でおかしいのですが、それについては記事を改めて検証していきたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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