【検証】自力の心を捨てようと方便の善に励む人の気持ち

【考察】自力の心を捨てようと方便の善に励む人の気持ちにて、親鸞会教義に基づいて善を励んでいる人は、

「さすがの阿弥陀仏といえどもただいまの私を救うことはできない。だが、善をして信仰が進んで微塵の善もできない極悪人と知らされた私は救って下さる」
「今は阿弥陀仏に選ばれる(救われる)自分ではないが、善をしていくことで阿弥陀仏に選んで(救って)頂ける自分になる」
「一切経の99%は善の勧め。その善の勧めが弥陀の救いと無関係であるはずがない」
「地獄一定の自覚こそ機の深信である」


というように考えていると述べました。今回はこうした考え方について、おかしな点を1つずつ指摘していきます。

1、機の深信と罪悪観の混同
詳しくは「二種深信」(灘本愛慈著『やさしい安心論題の話』 より)←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(9)をご覧下さい。
会員の方はまず混同しています。例えば『歎異鈔』の「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」は、「生死を出離できるような行は何もできないから、苦悩の世界から離れることはできない」と仰ったお言葉です。親鸞聖人は非常に自己を厳しく見つめる御方でしたから、「地獄は一定すみか」と仰ったのでしょう。しかしそれは聖人の罪悪観であって、自己を「微塵の善もできない地獄一定の者」と見るのが機の深信ということではありません。
機の深信とは、一他力信を二種に開いて顕されたものであり、自力では生死出離の縁あることなく、善根薄少にして火宅を出ることができないと深信したことを言います。煩悩を具足し、罪悪にまみれているのは、その理由です。これは力強い本願力によってのみ往生すると他力に全託したため、自力の計らいが捨たったことを意味しています。地獄しか行き場がないということではなく、自力では生死を出離できるような己ではないと信知させられるのです。
罪悪観は一人一人違いますから、同じにはなりません。比較するのも何ですが、聖人と私の罪悪観は違います。違って当然です。聖道の修行を20年も励まれた聖人とは違い、私は法話等で罪悪の話を聞いたら「確かに私は地獄堕ちても文句は言えんな」と思いますが、その思いは長続きしません。その日の夕方には殺生の自覚は忘れ、魚や肉を美味しく頂いています。しかし、聖人も私も共に「生死を出離できない」のに疑い晴れているのは変わりません。本願力によってのみ往生を得と深信しているからです。罪悪観は一人一人異なりますが、他力信(機法二種深信)は同じです。罪悪観と機の深信を混同してはなりません。まして、罪悪観は自力であり、目的である信心決定(二種深信)に近づけるための方便などと捉えるに至っては話になりません。(顕正新聞を読んで⑥参照)

2、「善に励んでいった私」が地獄一定の自己を知らされるというのは、あくまで想像上の出来事であり、机上の空論
誰か信仰(?)が進んで、そう知らされた人はいらっしゃいますか? 明確な根拠もなく、自分も周りも誰も確かめてもいないことを、よくも自信満々に言えるものだと感心してしまいます。阿弥陀仏の救いやその喜び様は周囲の人と比較するものではありませんが、周囲で誰も救われていないことには「難信だから」で片付けるのではなく、疑問を持ってほしいところです。

3、只今の救いを拒絶、あるいは信じられなくなっている
弥陀の救いは信仰(?)が進んだ先の救い、宿善が厚くなった後の救い、地獄一定と知らされた後の救いであると信じているのです。それに対して、自分はまだ信仰(?)も進んでいなければ宿善厚くもない、地獄一定とは思えない、それどころか後生も問題になっていない、だから救われないのだと、只今の救いを拒絶し、諦めてしまっているわけです。
無常は今日にも迫っているかも知れません。悠長に構えている場合ではありません。無常迅速の私がお目当てだからこそ、弥陀は一念で救う本願を発されました。一念とは横の道を延々進んだ先の決勝点ではなく、只今ということです。進んでいる途中に命尽きたらアウトですから、私がどこかへ向かって進む教えとは違うのです。

4、私一人の為の本願だとは思っていない
ちょうど阿弥陀仏が先生とすると、私は何十人もいる学級の生徒の一人に思っているのかも知れません。これだと先生は私一人の為ではなく、皆の為の存在ということになります。また、先生に選んでもらえるように努力しなければならない場面もあるでしょう。
本願には十方衆生と誓われてありますが、それは私一人ということです。私一人を除いて本願はあり得ないのであり、私一人を助けるのが弥陀の目的なのです。弥陀と私は一対一、私は弥陀の一人子なのです。

5、阿弥陀仏の救いを「ただ」だとは思っていない
ある一定基準を満たした人、一生懸命頑張った人から先抜けの救いだと思っているということです。
阿弥陀仏の救いを、受験や採用試験、面接、昇級試験の合格のようにとらえているとこういう思いになります。そして、自分にはまだ努力が足らないから、もっと一生懸命頑張らなければとなります。高森会長が「ただ」の救いだとは説いていませんから、こうなるのは当然のことです。
「いや、ちゃんと説かれている」と反論する方があるかも知れませんが、「ただ」の救いに遇うまで「因果の道理が知らされなければ」「地獄一定の自己が知らされなければ」「後生は一大事だと驚きが立たねば」「十九願の善を一生懸命やらねば」「信仰(?)が進まなければ」「宿善が厚くならなければ」「微塵の善もできない自分だと知らされければ」と、いくつもいくつも条件がありますから、親鸞会で説かれる救いとは「ただ」の救いではなく、「条件だらけの」救いなのです。

6、修する善が往生の役に立っている
善の実践によって一念の決勝点まで到達するのであれば、聞き始めからのトータルで見ると修善が救いに一役買っていることがわかります。本来信前の者が通らなければならない道程などないことは、繰り返し述べてきました。ですから善の実践によって阿弥陀仏の救いに近づいてゆくのではありません。善の実践によって地獄一定の自己が知らされるのでもありません。修善と救いは無関係です。

7、八万四千の法門がなぜ説かれたのかを理解していない
この類の人は、対機説法の意味がよく理解されていないと思われます。釈尊は一人一人に応じた教えを説かれたので、八万四千といわれる莫大な量の教えがあるわけです。それはひとえに本願一つ説くためだと親鸞聖人は仰せですから、既に本願の救いを求める人は本願一つ聞けばいいのです。それで仏教全て聞いたことになります。会長も「唯説弥陀本願海」をこのように説いているはずです。本願に救われるまでの道程として高森会長が説く「三願転入の教え」が間違いなことは何度も当ブログで取り上げました。
かつて高森会長は、説く者は十八願一つを説かねばならないと『顕正』に書いていましたが、後に「三願転入の教え」が導入されたことも当ブログですでに取り上げました。(時代と共に変わる教え(2)参照)時代と共に変わる教えですから仕方ないのかも知れません。


おかしな点はまだまだあるでしょうが、思いつく限りを書きました。足りない点はコメントを下さい。会員の皆さんは、救いとは無関係な活動に従事させられているということを知って頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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