『顕浄土真実教行証文類』の構造(1)

本日は改めて、『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行証文類』)とは一体どのような書物なのかを見てみたいと思います。親鸞会の会員さんは、『教行証文類』というお聖教がどのような構造なのかを知れば、信心獲得するために修善を勧める教義のおかしさがよくお分かりになると思います。

まず、『教行証文類』についてWikiArcから説明を引用します。


親鸞聖人の主著。『教行信証』『教行証文類』『広文類』『本典』などとも称され、浄土真宗の教義体系が示されている。すなわち本願力回向を往相回向・還相回向の二つに分け、往相すなわち衆生が浄土に往生しさとりに至る教えを教・行・信・証の四法として明かされたものであり、浄土真宗における立教開宗の根本聖典である。はじめに総序があり、続いて教・行・信・証・真仏土・化身土の六巻に分けて詳細に宗義が明かされ、終りに後序がある。
 まず教とは『無量寿経』であり、そこには釈尊が世に出られた本意である本願名号の教えが説かれている。その教えの内容は行信証という衆生の往生のありさまである。行とは本願の名号であり、衆生の闇を破り、往生成仏させる如来選択の行である。信とはこの行を疑いなく受け入れた信心であり、この信は仏の大智大悲の心にほかならず、衆生を往生成仏させる因となる。これを信心正因という。証とは如来回向の行信の因が、果すなわち弥陀同体のさとりとしてあらわれることであり、そのはたらきとして衆生を救う還相が展開する。このようなさとりの境界が真仏土(真仏・真土)である。それは光明無量・寿命無量の境界であって、往相・還相の二回向の源でもある。続いて化身土(化身・化土)を示すことにより、前五巻において示された浄土真実の教えに対して、方便・邪偽の教えを明確にし、人々が道を誤らないように注意を促されている。



『教行証文類』では、教巻の冒頭に、

謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の回向あり。一には往相、二には還相なり。往相の回向に就いて、真実の教・行・信・証有り。

と書かれた後、真実の教、真実の行、真実の信、真実の証、そして真実の仏と真実の浄土についての解説が詳細になされます。

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。(教文類)

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(行文類)

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。(信文類)

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。(証文類)

つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。(真仏土文類)



ここで『教行証文類』各巻標挙の文を見てみましょう。

教巻:大無量寿経
真実の教 浄土真宗

行巻:諸仏称名の願(17願)
浄土真実の行 選択本願の行

信巻:至心信楽の願(18願)
正定聚の機

証巻:必至滅度の願(11願)
難思議往生

真仏土巻:光明無量の願(12願) 寿命無量の願(13願)

化身土巻:『観無量寿経』の意
 至心発願の願(19願) 邪定聚の機 雙樹林下往生
『阿弥陀経』の意
 至心回向の願(20願) 不定聚の機 難思往生


このように18願を、11願・12願・13願・17願・18願(五願)に開かれて、真実の教・行・信・証・真仏・真土(六法)を明らかにされたのが『教行証文類』前五巻の内容です。
それに対して第六巻の「化身土文類」には、まず真実の仏と真実の浄土に対して、方便の仏と方便の浄土(化身土)が顕されています。

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。

【現代語訳】
つつしんで、方便の仏と浄土を顕せば、仏は『観経』に説かれている真身観の仏であり、浄土は『観無量寿経』に説かれている浄土である。また『菩薩処胎経』などに説かれている懈慢界である。また『無量寿経』に説かれている疑城胎宮である。

「真仏土文類」までは教、行、信、証、真仏土という順番に示されていたのが、一変して「化身土文類」ではいきなり化身土から示されています。これは、「真仏土文類」までで明らかにされた報土往生に対して、化土往生(雙樹林下往生、難思往生)という明らかな果の違いを教えられているのです。
報土と化土を比べたらその差は歴然です。化土巻の要門釈では、『大無量寿経』の胎化段と『無量寿如来会』の胎化段を引文されて、胎生(化土往生)と化生(報土往生)の得失を説かれています。まず化土往生するという明らかな果の失を示すことにより、化土を誡められているのです。裏からいえば、報土往生を勧められているのです。

では、報土往生と化土往生という違いがどうして出てくるのでしょうか?

それは、報土に往生する真実の教・行・信・証があるのに対し、化土に止まる方便の教・行・信・証があるからです。
因が他力回向の行信(南無阿弥陀仏)と、自力諸善・自力念仏というように異なれば、結果もそれぞれ真仏土と方便化土と異なってきます。だから、十八願の行信を得た正定聚の機と、十九願、二十願の行信に止まっている邪定聚の機、不定聚の機では結果に歴然とした差が出るのです。
「真仏土文類」までは浄土真実の教・行・信・証・真仏土が明らかにされているのに対して、「化身土文類」にはその名の通り、浄土方便の教・行・信・証・化身土が明らかにされています。そして「化身土文類」には、なぜ真実浄土ではなく方便化土に止まるのかが詳しく書かれています。つまり、方便の教・行・信・証は勧めるためではなく「誡めるために説かれた」のです。

真実の行信により、真実の証果を得る。
方便の行信により、方便の証果を得る。


当然のことですね。
方便の行信によって真実の証果を得られるものではありません。また、方便の行信に励んでいけば、真実の行信を獲られるでもありません。方便の行信は衆生の方で修めていくものですが、真実の行信は阿弥陀仏より回向されるものでありますから、どれだけ善を修めたところで獲られるものではありません。
つまり、十九願や二十願の行信(自力諸善、自力念仏)にどれだけ努めたところで、十八願の救いにあずかるわけでも、十八願の行信(他力念仏)を獲られるわけでもありません。

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。(口伝鈔)

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。(同)


と覚如上人も仰せられている通りです。(つづく)
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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