『顕浄土真実教行証文類』の構造(2)

昨日の記事で、「化身土文類」は、まず報土に対して化土という明らかな果の違いを述べ、化土へ止まることがないようにと誡めるために説かれたと書きました。
そして、化土往生の因である仮の行信(自力諸善、自力念仏)をどれだけ一生懸命修めたところで真実の行信(他力念仏)にはならず、報土往生はできないことを述べました。

こういうと、親鸞会の会員さんから「じゃあ三願転入の御文はどうなるのか?」と質問が来そうなので、今日はこれに答えておきます。

まず十九願については
「万行諸善の仮門を出でて」
「雙樹林下の往生を離れ」

とあり、選択の願海に転入するために十九願の善を修めよとのお言葉は見当たりません。

二十願については、三願転入の直前で

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(化身土文類)

と仰り、二十願の行者の失について述べられています。そして三願転入の御文では、一旦は入ったが
「然るに今特に方便の真門を出でて」
「難思往生の心を離れて」

とあり、やはり出て離れるべきものであると明らかにしています。十九願、二十願はそこにとどまっていてはいけない法門であることを御自身の体験を通して教えられている訳です。

親鸞聖人は、十九・二十願は、未熟な機を見捨てることなく導こうとされる阿弥陀仏の大悲より起こされたものであると仰せです。しかし、『教行証文類』他どの聖人のご著書を読んでも、どこにも「十九願の善、二十願の念仏を一生懸命修めたから選択の願海に転入した」とは書かれていません。十八願の救いに遇うために、十九願の善、二十願の念仏をせよとは教えておられないのです。
逆に十九願の善、二十願の念仏を一生懸命修めて助かろうとしているのを自力疑心と言い、そういう者を疑心の善人、真仮を知らざる者と言うのです。

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり(正像末和讃)

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。(真仏土文類)



親鸞聖人はこのように十九願、二十願といった仮の行信に止まることを誡められています。そしてひとえに十八願一つを勧められていることを、

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
 しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序)


【現代語訳】
 よって、あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、得がたい金剛の信心は、疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると知ることができる。
 このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである。釈尊が説かれたすべての教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。
 煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。
 ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。如来の本願の何とまことであることか。摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。


と仰っていることで示しておきます。
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質問です

件の特専部員との議論に関して質問です。

「信心をいただけるように機を整えるのが調熟の光明の働きで、
一念で信心をあたえるのが破闇の光明の働きだと理解しています。」
と言ったところ、
「それは経典のどこに根拠があるのか?」
と質問されました。
どこに根拠があるか、私はよく知りません。
淳心房様はご存知でしょうか?

いつも記事と関係ない質問ばかりで申し訳ありません。

>ぺんぺん草様

根拠もなにも、『教学聖典(4)』の問(20)で、阿弥陀仏の光明のはたらきを

信前ー調熟の光明、信一念ー破闇の光明、信後ー摂護の光明

と教えているのですから、根拠は親鸞会が提示するべきではないのでしょうか?


ご質問については調べてみましたが、

http://crs.hongwanji.or.jp/kyogaku/mission/howa/sandai/gosandai_8.htm
『教学伝道研究センター』

には、

阿弥陀如来の光明には、私たちの煩悩の闇を破るはたらき(破闇の光明)、信心をいただくように導くはたらき(調熟の光明)、信心の念仏者を摂取して捨てないはたらき(摂取の光明)といった側面がある。

とあり、

http://www.asahi-net.or.jp/~yi9h-uryu/seiten/aminote-3-1.htm
『小経ノート』

には、

今、「十方の国を照らす」とあるのが、この調熟の光明であり、「障碍するとこなし」とあるのが摂取の光明に配当することができます。このことを『ご和讃』に「十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはし、摂取してすてざれば、阿弥陀となづけたてまつる」と讃嘆されているのです。

とありますが、実際に「調熟の光明」の出拠は分かっておりません。なお、

http://blog.goo.ne.jp/onuma_horyu/e/ba3cbe87abd859eab659715eb3dae3eb
『大沼法竜師に学ぶ』魂のささやき 45調熟の光明と摂取の光明

には以下の記述があります。

佛様の光明には調熟の光明と摂取の光明との二つがあると、お説教では度々聞くけれども、二の光明は何処で判然と区別するか一度も聞いた事がない。根機を調えるのが調熟の光明、戴いた信が真なら摂取の光明というまでは言い得るけれども、(以下略)

ありがとうございます

どうして経典上の根拠を出す必要があるのかは知りません。
ただ、一応自分でも調べてみようと、いろいろ読んでみたのですがよく分からなかったので質問いたしました。

いつも丁寧な御返答ありがとうございます。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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