本願を信じ、念仏申さば、仏に成る

『仏説 観無量寿経』には最後に、釈尊は阿難尊者に念仏を付属されています。

流通分(汝好持是語)
【32】 そのとき阿難、すなはち座より起ち、前みて仏にまうしてまうさく、「世尊、まさにいかんがこの経を名づくべき。この法の要をば、まさにいかんが受持すべき」と。
仏、阿難に告げたまはく、「この経をば〈極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を観ず〉と名づく。また〈業障を浄除し諸仏の前に生ず〉と名づく。なんぢまさに受持すべし。忘失せしむることなかれ。この三昧を行ずるものは、現身に無量寿仏および二大士を見ることを得。もし善男子・善女人、ただ仏名・二菩薩名を聞くだに、無量劫の生死の罪を除く。いかにいはんや憶念せんをや。もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。
仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。


【現代語訳】
(32) そのとき阿難は座から立ち、釈尊の前に進み出て申しあげた。
 「世尊、ただいまの教えは何と名づけたらよいでしょうか。またこの教えのかなめはどのようにたもてばよいのでしょうか」
 釈尊は阿難に仰せになった。
 「この教えは<極楽世界と無量寿仏および観世音菩薩・大勢至菩薩を観ずる経>と名づけ、また<これまでの悪い行いもさまたげとはならず、仏がたの前に生れる経>と名づける。
 そなたはこの教えをたもち、決して忘れてはならない。この観仏三昧を行うものは、その身はこの世にありながら、無量寿仏および観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができる。善良なものたちがただ無量寿仏の名と観世音・大勢至の二菩薩の名を聞くだけでも、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれるのであるから、ましてそれらを心に念じ、常に思い続けるなら、なおさらのことである。
 もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。このような人は、観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となリ、さとりの場に座り、仏がたの家である無量寿仏の国に生れるのである」
 釈尊は阿難に仰せになった。
 「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである」
 釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。



『観無量寿経』の意図は一体何でしょうか? 釈尊は我々にどうせよと教えられたのでしょうか? これについては、仏教の素人である私達があれこれ計らうのではなく、仏教のプロからお聞きすべきであります。
【再掲】法然聖人のお言葉にも挙げましたが、ここは親鸞聖人の本師法然聖人から聞いてみましょう。

ゆゑに知りぬ、念仏また九品に通ずべしといふことを。二には『観経』の意、初め広く定散の行を説きて、あまねく衆機に逗ず。後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。いはゆる[[「汝好持是語」等の文]]これなり。その義下につぶさに述ぶるがごとし。ゆゑに知りぬ、九品の行はただ念仏にありといふことを。(三輩章)

『観経』には初めは詳細に定善散善の行が説かれていますが、後には定散二善を廃して念仏一行が勧められています。それが最初に示した阿難付属の文に明確に現れています。それによって「ゆゑに知りぬ、九品の行はただ念仏にあり」ということを知ることができます。

「いはゆる[[「汝好持是語」等の文]]これなり。その義下につぶさに述ぶるがごとし」と仰った「汝好持是語」等の文については、念仏付属章に教えられています。

標章の文に「釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文」とあり、その私釈の最後の方で、

つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもつて付属流通せず。ただ念仏の一行をもつて、すなはち後世に付属流通せしむ。
知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。
また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。
いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。
念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。(念仏付属章)


と教えられています。参考までに以下に現代語訳を示します。

よくよく経の意を尋ねてみると、これらの諸行を付属し流通させないで、ただ念仏一行をもって後世に付属し流通せしめられている。
まさに知るべきである。釈尊が諸行を付属されないわけは、それが弥陀の本願に誓われた行ではないからであり、また念仏を付属されるわけは、それが弥陀の本願に誓われた行であるからである。
今また善導和尚が諸行を廃して念仏に帰せしめられるわけは、すなわち念仏が弥陀の本願の行である上に、また釈尊が付属された行だからである。このゆえに知られる、諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。



では、なぜ釈尊は難行であり劣行として本願に選び捨てられた定散二善などの諸行を説かれたのでしょうか?

定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。(念仏付属章)

「定散二善を説かれたのは、念仏が諸善に超え勝れていることを顕すためである。もし定散二善がなければ、どうして念仏が殊に秀でていることを顕すというのか」と教えられています。


このように教えられていることから、私達がたもつべき行は念仏一行であります。正定業である念仏一行を一心に称える者を阿弥陀仏は摂め取って決してお捨てになりません。
「本願を信じ、念仏申さば、仏に成る」これが浄土真宗のすべてです。
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No title

今まで信心ひとつと聞いてきたので、念仏についてはほとんど聞いていませんでした。

「本願を信じ、念仏申さば、仏に成る」というのは、蓮如上人のお言葉ですか?

>迷い中様

信心一つなのですが、要は何を信じるのかということです。名号を疑いなく信じるのが真宗の信心ですから、名号を離れた信心もなく、信心を離れた名号もありません。

お尋ねの御文は歎異鈔のお言葉です。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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