他を体験至上の異安心だと非難している親鸞会自体が体験至上の異安心です

SI様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。
遅くなりましたが、お返事致します。

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「自力一杯命懸けで求めたものでなければ、自力無功と切り堕とされて久遠の弥陀と対面するという体験は出来ません。」
というのは、完全に誤りなのですね。
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教義的に完全に誤りです。

阿弥陀仏の救いとは、自力一杯命懸けで求めなければ救われないとか、あるいは自力一杯命懸けで求めれば救われるというものではないのです。

自分が求めるより先に与えられている如来の御手回しを聞くのが真宗です。それを、救われるには

「自力一杯命懸けで求めたものでなければ、自力無功と切り堕とされて久遠の弥陀と対面するという体験は出来ません。」

と全ての人の求信の過程のように言うことは、

「自力一杯命懸けで求めた結果、自力無功と切り堕とされて久遠の弥陀と対面するという体験が出来る」

と自力で求めたことに功を認めているわけですから、完全にアウトです。

また、「一杯」「命懸け」という表現ですが、これだと、どの位「一杯」「命懸け」で求めたのかということが問題になります。しかし、これらは1人1人異なるものです。
例えば、私もSIさんも自分が思う「一杯」勉強したとして、私はテストで50点だったがSIさんは80点だったとすると、私の「一杯」はSIさんからしたら「一杯」ではないと思うかも知れません。「命懸けで走った」と言っても、私の「命懸けで走った」は、SIさんにとっては「命懸けで走った」ことにならないかも知れません。
このように1人1人異なることを求道の過程として聞法者に語り、とにかく「自力一杯」「命懸け」で求めなければ救われないかのように説く者こそ、彼らの言う「体験至上の異安心」に当たるでしょう。そして、聞く者を自力回向、自力修行的な考え方に陥らせて、他力回向の教えと正反対の方向に向かわせてしまうことになります。

私は、その人個人がどのような体験をし、何をどう思ったのかというのは肯定も否定もするつもりはありません。高森会長や谷口女史は求信の過程で、本人達が述べているようなことをやったし思ったのかもしれません。

しかし、布教使の立場において、聞く者を迷わせるようなことを言ったり、書いたりすることは、それこそ言うべきことでもなければ、書くべきことでもありません。自分の体験をもって「こうでなければならない」と人の求信の過程を決め付けるのはおかしいのです。

本願の救いは自分の行為とは関係ない救いであると共に、他を体験至上の異安心だと非難している親鸞会自体が体験至上の異安心であることを知って頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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