会員の方が非常に悩むであろう問題

・獲信の因縁として善を修せよ
・獲信と修善はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ


TS会ではこのようにして、18願の救いを求めて善をせよと教えています。
このような獲信のための(因縁としての)修善の勧めは誤りであることを当ブログでは指摘し続けてきました。

・定散二善や財施、破邪顕正(法施)といった諸行諸善は、それが正しい意味での善行だとしても、それらは本願に選び捨てられた難行であり劣行であること。
・私達には定散二善はできがたいこと。
・往生行としての正助の行以外の諸善万行は雑行であること。
・阿弥陀仏の光明は、雑行を修める行者を照らし摂めないこと。
・定散の善は諸行往生の言葉に摂まり、臨終来迎を期せずしては化土へも往生できない業であること。


こうしたことが理解できたなら、18願の救いを求めて善を修せよと勧めることがいかに親鸞聖人の教えに反しているか、お分かりになると思います。
ところが、会員の皆さんの中には誤りが誤りと思えない方が沢山います。その理由としては、

・因果の道理に囚われて、倫理・道徳的な面からも「悪は慎み善はしなければならないもの」との意識があり、往生に関してと生活に関してとの区別がつけられない。
・未熟な自分には方便が必要であり、自力が廃るには方便の善をしなければならないと思っている。


などが考えられます。これは、特に会員の方が非常に悩む所であろうと思いますので、これから述べていきます。

まず前者についてですが、往生行としての諸善万行(阿弥陀仏の救いを求めて修する諸善)は雑行と嫌われ捨てよと教えられます。阿弥陀仏の救いと我々の善悪は関係ありません。それどころか、救いと我々の善悪が関係あるかのように思っている心を信罪福心といい、これは自力の心ですから、この自力心ある間は本願の救いにあずかることはできません。親鸞聖人はこの信罪福心を徹底して誡められました。
ただし、本願の救いと我々の善悪は関係なくても、生活していく上では我々の善悪の行いは大いに関係があります。礼儀・挨拶といった善いとされること、暴飲暴食などの悪いとされることを分別して日常生活を送っていくことは勿論大切です。
しかし、日常生活についてと阿弥陀仏の救いについてをごっちゃにしてはなりません。T会長や幹部講師は、そこをごっちゃにさせるように説きますから、会員さんは余計区別がつかなくなってしまうのです。

後者については、まず方便というものの意味が分かっておりません。方便とは、「仏が」「私に」近づくのに「仏が」用いる巧みな手立てです。「私が」「仏に」近づくのに「私が」修する法門ではありません。主語と目的語を間違えないで下さい。
次に、会員の皆さんが善に励む目的ですが、「善のできない自分と知らされるため」ではないでしょうか? 仏教の目的は成仏です。仏教で修善とは仏に成るべく励む行であり、「善のできない自分と知らされる」のが目的で行ずるものではありません。
そして、私が方便の善に励んだら自力が捨たるのかということです。TS会でいう「善ができると思う心」は、自分の頑張りで捨たるのでしょうか? 答えは「はい」か「いいえ」のいずれかしかありません。両方について、よく考えて頂きたいと思います。


本願に救い摂られるには、南無阿弥陀仏のご回向の他にはありません。本願の名号は「助けるぞ」のお勅命であり、それを計らいなく聞き受けたのが信心です。こうして往生の一大事が決着した後は、必ず浄土に往生するに定めて下された御恩を喜びつつ、浄土に向かっての日暮しです。
その間、節度を守って倫理や道徳に反しないように生活していくのは当然のことです。自身がより良くなるよう努めていくのがあるべき姿でありましょう。ただしそれは自身の往生とは何の関係もありません。
本願は、この私一人の為に発されたものです。だから必ず助かります。どうか、正しく本願を説く方から聞いて下さい。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
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>因果の道理に囚われて、倫理・道徳的な面からも「悪は慎み善はしなければならないもの」との意識があり、往生に関してと生活に関してとの区別がつけられない。

ここ重要ですよね。
山田和上の論文に、S会の問題点の一つとして「俗諦門の軽視」とありましたが、
S会は世間法と出世間法を完全に混同してますから、「社会通念や法律を無視しても、往生のためであれば、それはかえって善なんだ!!」
という訳の分からない発想になり、表向きは「善のすすめ」を強調していながら、反社会的行為をするという実態につながるんですよね…

No title

>次に、会員の皆さんが善に励む目的ですが、「善のできない自分と知らされるため」ではないでしょうか? 
>仏教の目的は成仏です。仏教で修善とは仏に成るべく励む行であり、「善のできない自分と知らされる」のが目的で行ずるものではありません。

「善の出来ない自分と知らされるために善を行なっている」と思っている会員は少なくないでしょうが、
会長や講師が、直接的にそのように言って善を勧めていることはありますか?

私の知っている何人かの講師は、「善の出来ない自分と知らされるために善をやる」との教えは、浄土真宗には無いと言っています。

もちろん、そうはいいながらもそのように取られかねない言いまわしになっているのかもしれませんが。

会長や講師が著作や会合の中で、そのように言っている部分があれば、
それを直接示して指摘すれば、会員にも分かりやすく、目覚めるのではと
思ったりもします。

>Rudel様

善の勧めと言えば聞こえはいいですが、よく言って雑行の勧め、実態は親鸞会に都合のよい活動の勧めです。
会員の皆さんには、正体を隠した偽装勧誘や、本尊を取り返すための深夜押し掛け、家族に嘘をついての活動参加が果たして善い行いなのか、一人静かに考えて頂きたく思います。

>名無し様

『なぜ生きる』
欲と怒りと愚痴のかたまりのイダイケに、できる善などあるはずがない。
 ではなぜ不可能なことを、釈尊はさせられたのか、と不審に思う人もあるだろう。
 なんとかすれば、なんとかなれると自惚れている者に、なんともなれない自己を知らせるには、実地にやらせてみるよりないのである。そこに、やるせない仏の慈愛が光っているのだ。(p.170~p.171)

『こんなことが知りたい4』
十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、弥陀の狙いなのです。(p.109)

『本願寺なぜ答えぬ』
 ではなぜ、信前の人に、自力一杯の聴聞や、破邪顕正、布施行などの諸善を勧めるのか。
 机上の空論や、合点なら易しい。仏教は、行学である。
自力は捨てもの、間に合わぬものと、合点するのはたやすいが、実地の体験は、難中之難、無過斯だから、浄土は、易往而無人なのだ。
 後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わないか、実際、全力を尽くして、初めて、出来ることか、出来ないことか、可能か不可能か、ハッキリ知らされるのだ。(p.127~p.128)

などとあります。他、『親鸞聖人と王舎城の悲劇』にも『なぜ生きる』と同様のことがナレーションのセリフにありましたし、新聞などにもあったと記憶しています。


勿論、「善のできない自分を知らされるために善をやる」と表立っては言わないと思います。それではやる気も起きませんし、真剣になどなれませんからね。
しかし、会員さんは「我々には真実の善はできない」と教えられているのですから、善をする目的が善のカケラもできない自分を知らされ、願に相応するためであるのは間違いないでしょう。
他に文献をご存知の方がおられましたら、面倒でなかったら挙げて下さい。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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