専修と雑修

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 さきに述べました正雑二行は行体論ですが、今の専雑二修は修相論です。善導、法然は、五正行を修するを専修と言われ、雑行を修するを雑修とされています。選択集二行章(十三丁)に往生礼讃を引いて、これを釈してあります。即ち、「弥須捨雑修専、豈捨百即百生専修正行堅執千中無一雑修雑行乎」(※1)とされています。
 ところが宗祖は、さらに、同じ正行を修する中に於て、専雑二修を分別し、弘願如実の行を専修と言い、正行と言いましても自力心を以て、助正並修するを雑修とされております。即ち「化土の巻」(本三十一丁)に「悲哉垢障凡愚、自従無際已来助正間雑定散心雑故出離無其期」(※2)と釈されるのがそれです。和讃にも「助正ならべて修するをば、すなはち雑修となづけたり」等と示されるのです。そして宗祖がこのように、正行の上に更に専雑二修の区別をされるのは、いよいよ他力の純真を示されるのでありまして、不得意の人々の中には、善導、法然の捨雑帰正の真意に達し得ず、正行さえ修すればすべて弘願であると心得違いしている者もありました。だから定散の自力心を持って正行を修するのですから、正助二業はその実際を得ず、前三後一の助業に力を入れ、遂に名号の独用を信ぜない自力承認の世界に堕することになります。だから宗祖は大悲心の不得意の心を全払して、ひとえに念仏一行を専心専修する人をすすめ給うのであります。故に正行の上に専雑二修の廃立を為し給う時、真に善導の捨雑帰正の実際に達することをうるのです。
 要するに、善導、法然は、弘願と要門の相対廃であり、宗祖は、要門、真門、弘願の三門廃の明かしぶりであるということになります。
 このように、専修と雑修の区別は、善導や法然の二行相対廃の法義を更に明らかにして、自力廻向を捨てしめて、如実に名号独用、唯信独達の真宗法義を宣揚されるための大切な項目であると言わねばなりません。

(p.63~p.65)

(※1)「いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。」と読みます。
(※2)「悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。」と読みます。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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