正信偈の内容(4)-釈尊出世の本懐

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

   一

 「如来所以興出世」から「難中之難無過斯」までは、釈尊の本懐とそのお勧めのことが述べられてあります。すなわち釈尊がこの地に出現していろいろの法門を説き給うたというても、その本意はただ弥陀の本願を説くにあります。しかも末代濁悪の衆生はただこの法によってのみ解脱を得べきがゆえに、如来如実のおさとしにしたがって、弥陀の本願を信受すべきであります。この信受が獲信であります。つまりそれは「聞法能不忘」であって、かるはずみに聞いたのではない。またかるはずみなことを聞いたのでもありません。仏願の生起本末を如実に聞いて、如実に信受したのですから「能不忘」であります。見敬とは、至徳の名義が心の中に印現して無疑のすがたとなり、白道が明らかとなります。ここに生死流転のきずなが切れて、浄土往生が定まるのです。そしてまた「聞信如来弘誓願」の聞信はそれをさらに明らかにして、聞と信を差別しない信心のすがたをあらわすのです。すなわち信の随わない聞、聞の随わない信は、共に如実ではないのです。要するに弥陀本願業の第十八願意をそのとおりに聞信するばかりであります。

   二

 ところがこの第十八願の法は、自力疑心に執ずる邪見驕慢のものにとっては、これを信楽受持することははなはだ難く、難中の難これに過ぎたるはないのです。ゆえにすみやかに自力の執心をすてて如来如実のみことに信順すべきです。けだし弥陀の本願の信受し難いことを示すに二意があります。一には法のうずたかいことであり、二には疑惑をいましめむがためです。はじめの法のうずたかいことは、弥陀の本願は一代諸教に超えすぐれた他力易行の法であって、いっさいの私たちの思慮分別を超えたものです。それは計らい心を絶対に寄せつけないもの、したがって私の手ににぎることのできないものであります。また後の疑惑をいましめることは、経に「驕慢、弊、懈怠は以てこの法を信ずること難し」とあるように、自力疑心のはからい心をもっては、信受はできないことをあらわすのであらわす。

(p.220~p.221)
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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