正信偈の内容(5)ー能発一念の信心

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

   一

 仏のさとりをひらかせていただくことのできるその信心とはどんなものなのか。どうなった心が安心なのか。たいがいここがとまどうところです。だがしかし事実は、お助けの説明を信ずるのではなく、お助けをわが方へとりこむのでもない。それかと言って信じもようをまねするのでもない。つまり信ぜねばならぬ、たのまねばならぬ、と、「ただそのまま来いよ」のおよびごえを握って、それに腰かけているのではありません。出離の縁の全くない者、さとりへの望みの絶えはてた私、この私を見捨てることができず、どうすることもできないこの私の姿が弥陀の目につけばつくほど、弥陀は喚ばずにはおれない。弥陀は救いの本願をたてずにはおれなかったのでした。その救いのお力はすでに私たちの上に来ているのですが、私がはねつけていたのです。しかしついに弥陀のお計らいによって、成就された名号がそのまま私の信心となり称名となってくださるのでした。それはやむにやまれぬ大悲の誓願が救いのお力の名号として、おどりこんでくだされたのです。

   二

 私たちはこの信心に生かされてゆくのです。つまり名号のおはたらき一つで、生まれることのできない私が、浄土へ生まれしめられることにさだまるのです。それは生死の苦を抜き、永遠の生命をうることに定まったのです。この信心のところに永遠の生命が約束され、有碍の生活が無碍の一道の生活に転じかえなされるのです。これが正信偈の「能く一念喜愛の心をおこせば云々」とあるおこころです。

   三

 ところがこの信心一つということを、とかく自分勝手にとりこんでいる場合があります。
 その一つは、「お助けはうそでないと思うておればよい」とか、「疑おうと思うても疑えぬようになったから」というような思いをかたく握って、その心に腰をすえているのです。
 また他の一つは「どれほど聞いても大丈夫になれない。大丈夫になれたらよいがなあ。お助けを聞いているがこの機が承知してくれない。なんとかなろうなろうとしたり、なられぬことをくやんだり、そしてそのなられ心を信心だと思うている」場合です。
 こうしたことのいずれもがみなわが計らい心です。こうした心はどこから出てくるかといえば、この世は思うようになれないが、お浄土は自分の思うようになれる世界であると、自分の煩悩で勝手にえがいてそこへ往こうと夢みているところに根ざしているようです。すなわち思うようになれぬと愚痴をいう心の底のありだけを、「思うようにしたいというその心がすべて迷いである。罪の中におりながら罪を知らずにいるお前こそ、罪悪深重の凡夫であるぞ」と見抜き給うて、追いかけてせまってくださる弥陀の大悲でした。ほかには救いの道はない。弥陀が必ず助けると、この私をめがけて、喚ばずにはおれない弥陀の名号でした。このやるせのない名号に遇うところに「うそではないと思う心」や「疑い晴れたと思う思い」に腰をおろしていることも、また「どうしても大丈夫になれない」と言うてくやむすがたも、すべて弥陀の名号にとりあげられて、念仏せずにはおられぬことにさせてしまわれるのでした。

(p.222~p.224)
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加茂和上のおさとしはいつも有り難いですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…

>Rudel様

本当にそうですね。読んでいて、また打っていて、こういう話こそ善知識の説かれる話だと思いました。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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