正信偈の内容(6)ー摂取の心光常に照護したもう

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

   一

 真宗の信心は、私がしてゆく信心ではありません。だから信心するために名号のいわれを聞くのではありません。弥陀のお助けの親心のいただかれたのが信心です。「無量永劫かかっても、後生の用意できない汝を、この親がまるでうけおうて救うぞよ」との仰せが、わが胸に聞き得られたのです。このおまちがいのない大悲の親さまのおよび声に、後生をくつろがせてもらえたのが真宗の安心であります。

   二

 ところでここに「摂取の心光常に照護したまふ。すでに能く無明の闇(あん)を破すといへども、貪愛瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆へり云々」と仰せられてあります。これについて蓮如上人と宗祖聖人ではその当面の解釈を異にされています。すなわち蓮如上人では獲信の行者は常に摂取の光益(こうやく)に照護せられつつあり、しかも獲信後に於いてまのあたりその光明を拝し得ないわけは、貪瞋の煩悩に眼を障えられるがゆえです。しかも私たちが「煩悩に眼障えられて、摂取の心光見ざれども、大悲ものうきことなくて、つねにわが身を照らし給う」しるしには、貪瞋の心底をいつとり出しても、常に往生安堵のおもいがあるのです。もしこれを譬えれば、曇りの日に日光を見ないのは、雲霧がこれを覆うがためです。しかし日輪は常に雲霧の下赫々としていますように、貪瞋煩悩の雲霧は覆うて摂取心光を見せしめないと言いましても、こうした貪瞋成就の者においてこそ、常に摂取の心光は摂護ましますというのです。このように日光を摂取心光の意味に解されるのが蓮如上人です(要を承けたもうた正信偈大意の意です)。
 ところが宗祖は獲信後において、始終不断に信心歓喜のおもいのないのは、煩悩の所為であるが、しかし往生一途に大安堵心のあるのは、雲霧の下に常に日光のお照らしがあるように、信心の過失のないことを証すべきであると仰せられるのです。つまり日光をもって「信心」のこととせられてあります(銘文六十一丁)。これを要するに蓮如上人は法のすがたの上から日光を摂取心光とされ、宗祖は機の上から信心となされるという解し方のかわりはありますが、如来の心光常に護り給うということの上では同じ意味です。

   三

 ともかくも私たちの煩悩の雲霧は晴れませんけれども、夜が明けたら足もとが暗くないように、真実信心の暁になれば、貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の心はつねに起きても、往生については一点の疑いの心はありません。おまちがいのないお助けに安心させてもらいます。「大経」に「明信仏智」とありますことも、ここの「雲霧之下明無闇」とありますことも堕ちる機の方(かた)だけを聞くのではありません。この機の助かることまでも聞き得させてもらうとき、明らかな弥陀のお手もとのお助けのままに、わが往生は一定と大安心させてもらえるのです。
 ところがどうしても大丈夫な心になられないのは、若存若亡(にゃくぞんにゃくもう)のすがたです。お助けがとどけば、喜ぶときも喜ばれぬ時も往生決定です。弥陀が常に摂取してありますから、堕ちる心配もなければ、ぐずぐずの心もなく、この上もない大丈夫なことです。わが機は地獄ゆきと知らせていただき、それをまちがいなく助け給う願力のはたらきを聞かせてもらいますから、摂取心光常照護のふところの中とよろこばせてもらいます。だから少しもおそろしいことはありません。

(p.224~p.226)
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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