正信偈の内容(12)ー凡夫のつまづき
『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用
一
弥陀の本願を聞かせていただき、お念仏申させていただくほかには、私たちのいきのびるみちはございません。しかるに、その本願を聞かせていただくにつけても、私たちの胸の中は、何とか「はっきりなりたい」という思いを持つところから、あれこれのなやみが生じてまいります。この問題は大切なことだけに、まぎれが生じてきやすく、またはっきりしないままで終わってゆく場合もでてくる有様でもあります。
「はっきりなりたい」ということは人間の心持としては当然なことかもしれませんが、はっきりなりたいということによって、かえって計らい心をかためてゆくということにもなりかねないわけでもあります。先徳の中には「はっきりして、きままに暮らしたいという、その心根がにくたらしい」とみずからをなげいているお方もあるようです。明るくなったと思う思いがすでに、自分の驕慢であります。自分で明るくなれるものであれば、私にかけられた弥陀の本願はいたずらごとになってしまいます。まったくこれは思いあがりのすがたです。
二
それならば、信の決定(けつじょう)はないのかといえば、それがなかったならばすべてがむなしくなります。はっきりなりたいという求め心は、求めるところにはめぐまれないで、どうしてもはっきりなれない私のほんとうのすがたを見抜いて、このすがたのなりを引き受けてくださる本願のお心を知らせていただくところに、これこそはっきりなれたすがたであるといわねばなりません。
先徳は「仰せで安心するのである。仰せを聞いて、わが胸の中へ持ちこんで安心しようとするのではない。仰せだけで安心してしまうのである」と申されていますが、まことに適切であります。仰せをわが胸に持ちこんでとは、仰せをわが胸に持ちかえて、計らい心を差しはさんで「これでよし」と心得ることです。いかにも大丈夫のようですが、そこに凡夫のつまずきがあります。これでよしとすることが、いつしか計らい心におちいっています。真宗は聞こえたまま、仰せのとどいたままこそ、計らいのないすがたであります。
三
師のいわく「おまえ、聞こえたか」お同行「私は領解もなにもありません。ゆきさきまっくらがりです」また師のいわく「暗いなりでつれて行っておくれるお慈悲があるぞ」ここにすべてが言いつくされてあるようです。
私がはっきりして、それから助ける親ではありません。もしも私の胸がはっきりして助け給うのであれば、はっきりしたことが条件になります。
あるとき親鸞聖人が、「夜が明けてお日さまが出ると思うか、あるいはお日さまが出て夜が明けると思うか」とおたずねになったとき、一同は口をそろえて「夜が明けてのち、お日さまが出ます」と答えました。聖人はそれはそうではないとのおさとしでした。「わが胸がはっきりしてお助けがきまる」と思うのが凡夫のつまずきです。どこまでいっても、邪見と驕慢の心がつきまとうのが、この私たちのすがたです。それかといってはっきりしないままではありません。どうあっても助けるぞ、まかせよのはっきりした仰せをきかせていただくところに、私の助かることがはっきりしてまいります。私のはっきりは、お助けのはっきりのたまものといただけてまいります。「仰せだけで安心せよ」との先徳のおさとしは、わが計らい心を入れる余地がないことです。どうあってもの仰せが聞えてみれば、もはやわが胸の浅ましさをうちわすれて、お助けに助けられてゆくのであります。
聞法の日暮らしは、仰せがつねにせまり聞こえてくださって、かぎりなく、内に純化せしめられてゆく日暮らしであります。
(p.241~p.244)
一
弥陀の本願を聞かせていただき、お念仏申させていただくほかには、私たちのいきのびるみちはございません。しかるに、その本願を聞かせていただくにつけても、私たちの胸の中は、何とか「はっきりなりたい」という思いを持つところから、あれこれのなやみが生じてまいります。この問題は大切なことだけに、まぎれが生じてきやすく、またはっきりしないままで終わってゆく場合もでてくる有様でもあります。
「はっきりなりたい」ということは人間の心持としては当然なことかもしれませんが、はっきりなりたいということによって、かえって計らい心をかためてゆくということにもなりかねないわけでもあります。先徳の中には「はっきりして、きままに暮らしたいという、その心根がにくたらしい」とみずからをなげいているお方もあるようです。明るくなったと思う思いがすでに、自分の驕慢であります。自分で明るくなれるものであれば、私にかけられた弥陀の本願はいたずらごとになってしまいます。まったくこれは思いあがりのすがたです。
二
それならば、信の決定(けつじょう)はないのかといえば、それがなかったならばすべてがむなしくなります。はっきりなりたいという求め心は、求めるところにはめぐまれないで、どうしてもはっきりなれない私のほんとうのすがたを見抜いて、このすがたのなりを引き受けてくださる本願のお心を知らせていただくところに、これこそはっきりなれたすがたであるといわねばなりません。
先徳は「仰せで安心するのである。仰せを聞いて、わが胸の中へ持ちこんで安心しようとするのではない。仰せだけで安心してしまうのである」と申されていますが、まことに適切であります。仰せをわが胸に持ちこんでとは、仰せをわが胸に持ちかえて、計らい心を差しはさんで「これでよし」と心得ることです。いかにも大丈夫のようですが、そこに凡夫のつまずきがあります。これでよしとすることが、いつしか計らい心におちいっています。真宗は聞こえたまま、仰せのとどいたままこそ、計らいのないすがたであります。
三
師のいわく「おまえ、聞こえたか」お同行「私は領解もなにもありません。ゆきさきまっくらがりです」また師のいわく「暗いなりでつれて行っておくれるお慈悲があるぞ」ここにすべてが言いつくされてあるようです。
私がはっきりして、それから助ける親ではありません。もしも私の胸がはっきりして助け給うのであれば、はっきりしたことが条件になります。
あるとき親鸞聖人が、「夜が明けてお日さまが出ると思うか、あるいはお日さまが出て夜が明けると思うか」とおたずねになったとき、一同は口をそろえて「夜が明けてのち、お日さまが出ます」と答えました。聖人はそれはそうではないとのおさとしでした。「わが胸がはっきりしてお助けがきまる」と思うのが凡夫のつまずきです。どこまでいっても、邪見と驕慢の心がつきまとうのが、この私たちのすがたです。それかといってはっきりしないままではありません。どうあっても助けるぞ、まかせよのはっきりした仰せをきかせていただくところに、私の助かることがはっきりしてまいります。私のはっきりは、お助けのはっきりのたまものといただけてまいります。「仰せだけで安心せよ」との先徳のおさとしは、わが計らい心を入れる余地がないことです。どうあってもの仰せが聞えてみれば、もはやわが胸の浅ましさをうちわすれて、お助けに助けられてゆくのであります。
聞法の日暮らしは、仰せがつねにせまり聞こえてくださって、かぎりなく、内に純化せしめられてゆく日暮らしであります。
(p.241~p.244)
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