正信偈の内容(13)ー向うにながめた親ではない

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

   一

 朝夕に、わが家のお内仏の前にひざまずいて、合掌礼拝させていただきますことは、真宗のお流れを汲む者のさだまりであります。それをきちんと実行することは、みやすいようでなかなかできないことです。よほどのしつけのよい家庭でないとまもられていないのが現状であるかもしれません。しかしよしんばそれがつづけられているとしても、いかなる仏さまと心得て礼拝しているのかということになりますと、如実であることのきびしさを思わざるを得ません。つまり仏さまを礼拝することは尊いことですが、その心得が仏さまの思召しに相応していなかったならば、正しい礼拝とはいえないし、また正しい信でもないことになるのです。

   二

 このことをいましっかりおさえて申してみますれば、向こうへすえて、まつりあげているような仏さまにしてはいないかということであります。六字の親は私の向こうにあらせられるものではありません。向こうへみているかぎりは、私を助ける親さまとは耳に聞きながら、願行成就の名号を領受していない聞きわけ分斉(ぶんざい)であります。仏心と凡心の差し向かいの礼拝で、仏さまを自分の外に置いてながめているのです。ご法話の上では、わが往生の願行成就の六字の親さまと聞きわけながら、仏壇にかざってまつりあげ、耳の門口にお立て申して、まめやかなお念仏であやし、両手合わして拝みたおしている自分です。まことにずるい追いだしかたです。

   三

 雑ヶ崎の伊井智量和上は「南無来りてたすけたまへを成ず」とさとされました。わが心で阿弥陀仏を南無したてまつるのではありません。仏(ぶつ)のかたにお仕上げくだされた南無の二字が、私の上へ影現(ようげん)くだされたのが、私の弥陀をたのむ信心となってくださるのです。このとき六字の親は私に対立して外にましますのではありません。南無と一体の阿弥陀仏ですから、南無といっしょに私へ来りたもうのです。それを善導さまは「阿弥陀仏といふはすなはちこれ其の行」と仰せられたのです。「其(そ)の」というのは、南無が私のものとなった信心のすがたです。きたない業にぬきさしならぬこの自分が、あたえたもう南無にとろけあわされて、信心の機とめしなされたのですから、阿弥陀仏の往生のはたらき(大行)が私の上へとろけこんでおくれるのです。このとろけこんだところで六字の親さまはふかくおよろこびくださるのです。

   四

 六字のみ親は朝夕礼拝をうけて敬われるためにさとりに入られた名号仏ではありません。この私の往生の願行としてさとりたもうて、いよいよ成就したとき、そなたの六字ぞ、廻向成就の願行である、どうか聞いてくれ、受けてくれの大悲やむことのないお助けであります。この六字の親の念力が南無とたのむうけごころとなって、たすけまします阿弥陀仏が入りみちてくだされて、この私の全体をそのみはたらきに転じかえて、さとりの境界へすすめいれておくれるのです。ここにやれやれ本懐成就とふかくよろこびましますのです。ここに聞きわけ分斉が消されて、聞き得たもののしあわせがあります。向こうにながめたみ親にまかしているというような、似て非なるものとは全く異なるものです。このお正信偈は七高僧の思召をうけて、ここのところを明らかにあらわされたものともうかがえるのであります。

(p.244~p.247)
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平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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