正信偈の内容(17)ー法を聞くとは、わかったということではなく本願の中にこの私が見いだされたのである(上)

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

   一

 私たちの口に出入りの称名は、如来のお救いのはたらきが来ていることをあらわしているものです。それはあたかも、木の葉が動いていれば風が吹いていることが知れるようなものです。如来のお救いはすでに来ておりながら、いまだこの自分が救われていないのは、その救いをさまたげするものがあるからです。日光は照っておりながら、部屋の中が暗いのは、戸が締まっていると同じです。
 法然上人は信疑得失の妙判を示されましたが、いまも如来をさまたげるものが私にありますものですから、お救いが来ておりながらも救いにあずかり得ないのです。しかしそのさまたげのものとは、無始以来の計らい心です。そむきづめの私です。私は根本我執のものであり、無明煩悩のかたまりですから、それにもとづく計らい心です。これは宿業的存在ともいうべきものです。絶対に信のないすがたです。
 それゆえにこそ、これを悲しむのが如来です。宿業的存在ですからこそ、光をあたえてくださるのです。金輪際私の上においてはさとりを開くごときの信はないからこそ、そこに如来の三信が成り立つのです。そむきづめの私を悲しむのが如来です。その心が私にはたらきかけてくださるのです。それが勅命です。
 そのそむくすがたとはほかではありません。私の救いを確認しようとする心であり、結論を握ろうとする心です。これが如来のおこころを邪魔しているのです。こちらで大丈夫と覚悟したものも、実地には崩れ去るのです。お救いを聞いて、「そう思えばよいのですね」と言うてみましても、実際人間は変えられるものではないところに問題があります。どれほどわかっていても、聞かぬ私が別におります。蓮如上人は「仏法の上には明日という日はない」と仰せられていますが、その明日というのは可能性のことです。つまり自分の思いだけのものです。その思いだけで生きようとする私たちのすがたがあやまりであることをさとされたのです。実際、何もわからぬというのが現実のすがたです。

(二につづく)
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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