宿善が厚くなる行、信仰が進む手段として正信偈をあげるのではありません
約1年前、幹部講師が言っていたことです。
「朝晩のおつとめは大事でしょう?
朝おつとめするには、早く起きないとおつとめできないでしょう?
早く起きるには夜更かししていたらいかんでしょう?
早く寝ないといけないでしょう?」
このような論法で、日常生活上の善と獲信のための(因縁になる)善は分けることができないという内容の話を聞きました。読者の皆さんはこんな話を聞いてどう思われますか?
聞く者によってはなるほどと納得しかねない内容だと思います。実際、当時の私はこれに答える術をもっていませんでした。
親鸞会で何より問題なのが、縦と横の線により刷り込まれる思考回路、すなわち推進される活動を獲信まで進む手段と位置づけ、宿善が厚くなると言われているから○○しよう、○○しなければ信仰は進まないという考え方です。この思考回路から抜け出せない人は、上記のような話を聞いて納得してしまう可能性が高いと思います。
聴聞にせよおつとめにせよ、本願の名号、仏願の生起・本末、つまり「助けるぞ」の阿弥陀仏の仰せを聞かせて頂くのです。聴聞したから、おつとめをしたから、善をしたから救われる、あるいは宿善が厚くなって(信仰が進んで)救いに近づくのではありません。そういった考え方は、善悪因果の道理から本願の救いを計らい疑う信罪福心から出るもので、捨てよと言われる自力の心です。
自力が捨たらないと助からないと聞くため、何とかして自力を捨てよう捨てようとします。ところが、自力は自力では捨てられません。本願を聞くところに自力が捨たり他力に帰するのです。しかしどうしてもここのところがハッキリ致しません。ここに、私は聞法者が信に惑い行に迷う根源があるように思います。
ではどのように求めれば、どう聞けばよいのかと質問する方もあるでしょう。
結論から言いますと、「どのように」とか、「どうすれば」という方法論はないのです。
私を救う手立ては、既に阿弥陀仏が五劫の間思惟し考え抜かれています。どのように、どうすればの心配は、既に阿弥陀仏の方でなされているのです。私は「必ず救う」阿弥陀仏の本願力をただただお受けするばかりであります。私の計らいを差し挟む余地など微塵もありません。本願の仰せを計らいなく聞き受けるばかりです。本願を聞くのがすなわち信です。
信前はどうしても自己の行功を認め、聞いたことや聞きぶり、修した善行をひそかに誇る自力の臭みが離れません。だからといって、聴聞や善行が悪いのではありません。それらによって助かろう、それらを救いの足しにしようという自力の計らいが悪いのです。しかし自力は自力では捨てられません。本願の名号によって捨たるのです。要は、自力を捨てさせ報土の真因となる本願の名号、つまり「助けるぞ」の仰せを只今、私が、ここで聞き受けることです。
報土往生、また信心獲得のためには我々の善悪の行いは障りともならず、助けともなりません。信後は勿論、信前もそうわきまえた上で聞法、生活をしていくべきであります。
現在只今の救いであるということを抜きにし、宿善が厚くなる行、信仰が進む手段としておつとめや早寝早起きなどの日常生活上の善を考えているところに、親鸞会の誤り、聞く者の誤りがあります。我々の行為は救いとは無関係ということを心得て、本願を聞信し念仏を申して浄土の旅を歩むのが大事と思われます。
「朝晩のおつとめは大事でしょう?
朝おつとめするには、早く起きないとおつとめできないでしょう?
早く起きるには夜更かししていたらいかんでしょう?
早く寝ないといけないでしょう?」
このような論法で、日常生活上の善と獲信のための(因縁になる)善は分けることができないという内容の話を聞きました。読者の皆さんはこんな話を聞いてどう思われますか?
聞く者によってはなるほどと納得しかねない内容だと思います。実際、当時の私はこれに答える術をもっていませんでした。
親鸞会で何より問題なのが、縦と横の線により刷り込まれる思考回路、すなわち推進される活動を獲信まで進む手段と位置づけ、宿善が厚くなると言われているから○○しよう、○○しなければ信仰は進まないという考え方です。この思考回路から抜け出せない人は、上記のような話を聞いて納得してしまう可能性が高いと思います。
聴聞にせよおつとめにせよ、本願の名号、仏願の生起・本末、つまり「助けるぞ」の阿弥陀仏の仰せを聞かせて頂くのです。聴聞したから、おつとめをしたから、善をしたから救われる、あるいは宿善が厚くなって(信仰が進んで)救いに近づくのではありません。そういった考え方は、善悪因果の道理から本願の救いを計らい疑う信罪福心から出るもので、捨てよと言われる自力の心です。
自力が捨たらないと助からないと聞くため、何とかして自力を捨てよう捨てようとします。ところが、自力は自力では捨てられません。本願を聞くところに自力が捨たり他力に帰するのです。しかしどうしてもここのところがハッキリ致しません。ここに、私は聞法者が信に惑い行に迷う根源があるように思います。
ではどのように求めれば、どう聞けばよいのかと質問する方もあるでしょう。
結論から言いますと、「どのように」とか、「どうすれば」という方法論はないのです。
私を救う手立ては、既に阿弥陀仏が五劫の間思惟し考え抜かれています。どのように、どうすればの心配は、既に阿弥陀仏の方でなされているのです。私は「必ず救う」阿弥陀仏の本願力をただただお受けするばかりであります。私の計らいを差し挟む余地など微塵もありません。本願の仰せを計らいなく聞き受けるばかりです。本願を聞くのがすなわち信です。
信前はどうしても自己の行功を認め、聞いたことや聞きぶり、修した善行をひそかに誇る自力の臭みが離れません。だからといって、聴聞や善行が悪いのではありません。それらによって助かろう、それらを救いの足しにしようという自力の計らいが悪いのです。しかし自力は自力では捨てられません。本願の名号によって捨たるのです。要は、自力を捨てさせ報土の真因となる本願の名号、つまり「助けるぞ」の仰せを只今、私が、ここで聞き受けることです。
報土往生、また信心獲得のためには我々の善悪の行いは障りともならず、助けともなりません。信後は勿論、信前もそうわきまえた上で聞法、生活をしていくべきであります。
現在只今の救いであるということを抜きにし、宿善が厚くなる行、信仰が進む手段としておつとめや早寝早起きなどの日常生活上の善を考えているところに、親鸞会の誤り、聞く者の誤りがあります。我々の行為は救いとは無関係ということを心得て、本願を聞信し念仏を申して浄土の旅を歩むのが大事と思われます。
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