私信ですが記事にしました(3)


ちょこぼさん、「コメント」ありがとうございました。

親鸞会の現役会員の方々は、

「真実に入ったときとは救われたときらしいから、それまでは権仮方便が必要なのでは」

「直来と仰っていても、その対象は三定死の人だ。それまでは火の河・水の河に耐えて白道を進む必要があるのでは」

と、ちょこぼさん以上に思うと思われますので、これについて取り上げたいと思います。


今日は、

「真実に入ったときとは救われたときらしいから、それまでは権仮方便が必要なのでは」

についてです。


まず浄土真宗で使われる方便に、善巧方便と権仮方便があることを知らなければなりません。

その詳しい意味は、『21世紀の浄土真宗を考える会』「方便といふこと 6」「善巧方便と権仮方便」とそれらの記事のリンク先を読んでみて下さい。

そして、善巧方便と権仮方便の意味を知らないため、親鸞会では方便について教えられた『蓮如上人御一代記聞書』の解釈が間違っています。

『21世紀の浄土真宗を考える会』「方便といふこと 3」より引用します。

方便についての、蓮如上人御一代記聞書の言葉を示します。

引用:蓮如上人聞書新釋(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

(176)
 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。
(註釈版聖典 1286頁)

【意訳】
 蓮如上人は仰せられた。
 世間では嘘も方便などといいふらすところから、方便を悪いことのようにおもいなすものもあるが、かかる間違いはあってならないことである。
 方便には権仮方便もあり善巧方便もある。
 まず、権仮方便ということについていえば、方便という権仮(かりもの)を設けて真実を顕す手段にする、さらに真実を顕したなら、方便を廃して真実を立てることであるが、ここに方便の値打ちがあるので、方便は悪いとおもうてはならないのである。
 次に善巧方便ということに、ついていえば弥陀釈迦二尊はいうまでもなく、次第相承の善知識がいろいろと善い巧みなお手廻しをなされて、私どもをみちびき、真実の信心を獲得させてくださるのである。


【解説】
 つねに仰せられる方便ということについて世俗の曲解を是正して、方便の正しい意識と価値を示されてある。
 そして方便を権仮方便と善巧方便のふたつの立場から解釈なされてある。
 「方便をもつて真実をあらはす廃立の義」とあるは権仮方便の意味であり、
 「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうる」とあるは善巧方便の義意である。



この『蓮如上人御一代記聞書』のお言葉から分かりますように、親鸞聖人が『教行信証化土巻』で権仮方便の願である19願・20願について教えられたのは、「化土巻は信前のことという言い方は適切か?」などで書いた通り、廃捨すべきものを明らかにし、真実(18願)を立てるためです。

この件については、『21世紀の浄土真宗を考える会』「化身土文類」の意味「化身土文類」の意味 補足説明も合わせて読んでいただけると理解が深まると思います。


では、親鸞聖人、蓮如上人が18願を求める人に何を勧めておられるかというと、

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(教行信証総序)

「只仏法は聴聞に極まることなり」(御一代記聞書)


と教えられている通り「聴聞」です。

ここで大事なのは、何を聞くのかということです。

それについて釈尊は『本願成就文』に、

「聞其名号」

と説かれ、そのこころを親鸞聖人は『教行信証信巻』に、

「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」

と教えられています。

これは親鸞会でも聞いている通りです。

これらのお言葉から「名号を聞く」、「仏願の生起本末を聞く」のが大事なことだと分かります。

『浄土和讃』の

「たとい大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなうなり」


のお言葉も、大事なのは「仏の御名をきく」ということです。


親鸞会では、「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」の部分に力を入れて教えられ、とにかく真剣に聞け、居眠り聴聞は以ての他、他事考えるな、一言一句違わずに聞くようにせよと言われます。

そして多くの場合、「仏の御名をきく」を「仏教をきく」と解釈します。

しかしこれは、仏教を聞きに来た人に対して「仏教を聞くことです」という説明ですから、当たり前のことで失礼でしょう。

何を聞くのかと言えば、「仏の御名をきく」とある通り「南無阿弥陀仏をきく」ということです。

ですから、どうか権仮方便に心をとどめずに、早く南無阿弥陀仏のいわれを聞いて下さい。南無阿弥陀仏のいわれを聞くのが信です。



本日は、「安心問答」から過去の記事の一部を引用し、今回の記事はおわりにします。


親鸞聖人が、大宇宙に充満する火を過ぎゆきて聞きなさいといわれているのは、「仏の御名」です。

「仏の御名」とは、「聞其名号」の名号ですから、南無阿弥陀仏のことです。

南無阿弥陀仏は、「ただ今救う」という働きがあります。真剣な心も、浄土に生まれたい心もない、浄土へ往生するものが何もない私だと見抜いて阿弥陀仏が作られたものです。

ですから、「ただ今救う本願を、ただ今救う本願と聞け」ということです。

これは「真剣な気持ちを起こさないと、ただ今救われない」ということではありません。

「真剣な気持ちを起こす」ということが問題ではなく、「ただ今救う本願を、ただ今救う本願と聞きなさい」ということです。

これは、「まず真剣になれ」ではなく「まず助かりなさい」ということです。阿弥陀仏の本願は、「まず真剣な心になれ」という願ではなく、「ただ今救う」という願です。

「ただ今救う本願」に「ただ今救われよう」と思う人が、結果として真剣になるのです。真剣になったから、阿弥陀仏の救いが「いつか救われる」から「ただ今救う」に変わるのではありません。

真剣にならなかったら助からないのかという疑問は、よくわかります。

しかし、この疑問は現実問題として助かっていないことを、自分で理由付けしているにすぎません。

「私が真剣になってないから」助からないのではありません、阿弥陀仏の救いが、「いつか」になって「ただ今」になっていないからです。

真剣になるかならないかを問題にするのではなく、ただ今助かるか助からないかを問題にするのです。

求めていることは「真剣になる」のではなく、「阿弥陀仏の本願に救われる」ことだからです。
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ありがとうございます

質問した心をよくよく考えてみました。親鸞会で次のようにきかされたことが土台になっていると思います。

「私たちの本心は救い(真実)を求める心などなく、弥陀の御力で求める心が与えられる。そのとき同時に救われる。これは一念だ」(間違ってるかもしれませんが、こんな感じ)

そのために"権仮方便は真実を顕すための手段”ときいても、

" 真実を真実と知らされるのは一念  ⇒  『真実を顕す』(方便を廃する)のは救われたとき ”

と自動変換してしまうような気がするのです。

19願がどういう権仮方便なのかを教えて頂くと、大間違いだとわかるのですが。


言われてみれば、18願は只今救う本願なのに、「救われるまでは方便が必要」とはおかしな発想ですね。
「救われるのは今ではない、だから今は方便が必要、捨ててはダメ」ということと同じではないでしょうか。

>十八願が真実と知らされ十八願の救いを求める人には、十九願や二十願の権仮方便は不要

と言われたことを自分なりに理解してみましたが、如何でしょうか。

それでも親鸞会は「只今の救いだと本心から知らされ求めるのは一念のとき、それまではナンチャラ」とでも言うのでしょうか。






> ちょこぼさん

そうですね。

「救われるのは一念だが、そこまで進むには方便(19願、20願)が必要」だと会員は思い込まされています。

しかしそれは只今の救いになっていません。これがお分かりになって頂けたようでよかったです。

ただこの迷いは中々根が深いので、追々記事で扱っていきたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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