浄土往生の証拠

この一年、楽しかったことや嬉しかったこと、また苦しかったことや辛かったこと、色々とありました。苦しい時は「いつまでこの状態が続くのか」と時間の経過が遅く感じられたりもしましたが、振り返ってみればあっという間に終わってしまったというのが実感です。皆さんは今年一年を振り返って如何でしょうか?
気がつくと、「今日も明日も、今週も来週も、今年も来年も、今日と同じように過ごせる、永遠に生きていられる」と思っている私。でも命には限りがあります。今日、今週、そして今年があっという間に終わってしまうように、人生もあっという間に終わってしまうのでしょう。その短い一生、たいていはそのまま輪廻していくしかない者が、阿弥陀仏の本願に値えたということはまたとないご縁です。TS会で聞いて想像していたような「絶対の幸福」なるものとは違いましたが、人生を浄土の旅とさせて頂き、後生に関しては阿弥陀さまにお任せと安心させて頂きました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ところがせっかくこの阿弥陀仏の本願ましますことを聞いていても、まだ本願を聞いていなかったり、聞いたつもりであったりしては大変です。直ちに本願を聞いて只今救われて下さい。浄土の旅を共にさせて頂きましょう。「何時でも聞ける、まだまだ聞ける」と思っていたり、「自分は未熟な機だから」と慮っていてはなりません。聞くのは今であり、そして成熟した私ではなく今ここにいる私が本願を聞くのです。
また往生の証拠は、私の聞きぶりや思いにあるのではなく、阿弥陀仏が仕上げて下さった南無阿弥陀仏にあるのです。今年の最後に、その加茂仰順師のお言葉を書きます。


浄土往生の証拠

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 その名号を聞かせていただいたその信の一念と同時に、即得往生住不退転の往生は、如来の方より定めて下さいます。
 その証拠は、南無をたのむものを阿弥陀仏と助けたもうが南無阿弥陀仏のゆわれでありますから、たのむ一念に往生とお定め下さる証拠は、この南無阿弥陀仏であります。
 この南無阿弥陀仏は弥陀のおさとりの仕上ったすがたであり、これを証拠として、たのむ一念に往生一定といただいた上は、何も文句はありません。それで、これで助かろうか、助かるまいかの私の心の扱いはいりません。心配は少しもありません。
 しかし、しかし、うわの空で聞いてはいないか。まだ本当に本願のいわれを聞かぬのではないか。ご用心。ご用心。

(p.390~p.391)


当ブログを読んで下さった皆様、ありがとうございました。また来年もよろしくお願いします。
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世間は休みかぁ

絶対の幸福もうそ?

>絶倫棒様

うらやましいですよね~i-229

「絶対の幸福」が「現生正定聚」を指して言っているのなら正しいのですが、「絶対の幸福」という言葉のイメージがよろしくありません。絶倫棒様は「絶対の幸福」と聞いてどんな幸福を想像しますか?
私は会員時代、「絶対の幸福」になったら鬱っぽい気分はなく常に幸せな気分に満ち溢れ、どんな苦難が訪れても煩悩即菩提で瞬時に喜びに転じ変わり、みなぎるやる気とファイトで人生を明るくたくましく生きられるものと想像していました。また生命の尊厳さが知らされ、自分の命も、他のどんな人の命も、地球より重いことがハッキリするものだと思っていました。「絶対の幸福」とは関係ありませんが、他にも会長の著書や話から、因果の道理間違いなしと知らされ、自分の三世がハッキリし、阿頼耶識に納まっているという業がどんなものか分かると思っていました。

確かに後生は阿弥陀仏に全託し、往生一定と安堵させて頂きましたが、この穢土を生きていく際の苦悩は絶えず、常に三毒の煩悩に煩わせ悩まさせております。嫌なことがあれば凹みますし、連続すれば鬱にもなります。人生を明るくたくましく生きられるかどうかは本人次第で、私自身は明るくたくましくとまではいきません。自分に都合の悪い人、またその命は尊いとも、まして地球より重い命とは思えません。そういう意味で親鸞会の教えるようなことは知らされなかったのです。

しかし、このようなどうにも生死から離れがたい存在である私を目当てに阿弥陀仏は五劫思惟の願を建てて「必ず救うぞ」と喚びかけ続けて下さいました。煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は万のこと皆もって空事、たわごとでまことはありませんが、ただ南無阿弥陀仏だけが私を往生成仏させるまことの法であるとありがたく、かたじけなく頂いております。絶倫棒様も早く南無阿弥陀仏の法を聞き受け、本願を信じ念仏して下さい。

絶対の幸福とかは、はっきりいってどうでもよかった生きてて楽しいし

ただ、氏ぬのがおっかないのは、楽しくてもつらくても変わることなし

>絶倫棒様

それはよいことです。

そうですね。仏教が問題にしているのはそこです。それはひとえに本願力に全託することで往生安堵致しますから、どうぞ必ず助ける本願をお聞き下さい。

氏ぬのおっかなくなくなる?

>絶倫棒様

ナイフや拳銃を突き付けられたらそれは怖いですよ。危険を身の察知さたら怖いため回避します。しかしそれは生への執着心という煩悩のために起こる恐怖であり、死後どんな悪い処へ生まれるかという不安は弥陀に全託しているためにありません。

死後が確信できたら、おっかなくないんでないかなー?

>絶倫棒さん

いま、本願を聞いて疑いがないから、「お浄土に参らせていただけることよ」という、往生安堵の思いが恵まれますが、そうはいっても死にたくないのが凡情ですからね…(^-^;

おっかないままか

つよしとお別れキツイしね

まぁ、怖い怖くないは感情の問題だから個々人で感じ方はまた違うでしょうけどね(;^ ^)

やみくもに恐れる必要のない人生観、死生観は恵まれてくるはずですが(´ω`)

>絶倫棒様

Rudel様のご意見も参考にして下さい。この肉体はやがて滅びるもの、永遠に流転を重ねて苦しみ続ける「私」を救う教えが仏教です。

死後の様相(地獄や極楽の様相)が見えるようになるわけではないので、どのような処へ生まれるかは分かりません。しかし自力では到底この迷いの世界を離れる縁てがかりを持たない劣悪な凡夫であると深く信じ、その私を「必ず救う」と誓われた南無阿弥陀仏の名号法を疑いなく慮りなく受け入れて往生は一定と深く信じておりますため、名残惜しくはありますが娑婆の縁尽きたら彼の土へ参らせて頂きます。

>Rudel様

コメントありがとうございます。
決定往生と後生をくつろがせて頂いたことはまことに本願力の賜物ですね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

どこまでわかるの? 救われてもおっかないままだと発狂して焼け食いする

>絶倫棒様

自力無功ということと、他力に全託したこと(二種深信)は分かります。また個人的に、ひとえに私一人を助けるための阿弥陀仏、釈尊、善知識方のご苦労、善巧方便であったということ、五劫という間阿弥陀仏(法蔵菩薩)が思惟しなければならなかったほど私を救うのが困難だったのかということ、なども聞かせて頂き知らされました。
ただ、親鸞会の話を聞いてイメージするようなこと(因果の道理間違いなしとハッキリする、過去も未来もみな分かる、阿頼耶識に納まっているという業が分かる、救われた信の一念がハッキリ自覚できる、地獄一定から極楽一定への精神的大飛躍、人命は地球より重い命だと知らされる、などなど)は阿弥陀仏に救われたことによって分かるかというとそうではありませんでした。親鸞会では救われると相当の事が分かる、ハッキリ知らされるとイメージしがちですが、そうではないのです。それらは皆珍説と凡夫の智慧が生み出す妄念ですから、忘れて頂いた方がよいでしょう。

救われても死に対して怖い人は怖いですし、臨終に際したら現状抱いている死のイメージは変わるかもしれません。しかし、後生は阿弥陀仏におまかせし、本願を信じ念仏するものを往生させるという力強い誓願力に身を任せていますから往生は一定です。

自覚ないの?

任しかたがわからんだ

東京大みたいに一週間くらい適当にやったら受かるわけでもなさそだし

>絶倫棒様

今本願力が私に届いているという自覚はあります。しかし、信の一念がハッキリと自覚できるというのは必ずしもそうではありません。高●教の聞き過ぎです。
それにハッキリした体験が信ではなく、本願を聞いて疑いないのが信です。過去の体験をたのむのではなく、未来の救いをあてにするのでもありません。現在只今、私を救う本願力を仰せの通り聞き受けていることが大事なのです。

ところが「阿弥陀仏の仰せにお任せする」と聞くと、「どう任せたら」と計らい心が出てまいります。これも聞き方と同様、私の方を問題にしている自力心ですから、こういう心が出てきたら問題にせずに、ひたすら「必ず助ける」本願を聞いて下さい。東京大と違って本願の救いは今聞いて今助かる法です。

読むことから?

ぴっぴろぴーだから、読むの大変

計らいなくとかは、?くさいし

>絶倫棒様

説法を聴聞する(法話会場に行くでも、ネットの音声法話でも)、本を読む、念仏する、聞く方法はいくらかあります。お好きなものを選んで聞いて下さい。
自力の計らいは本願力によってのみ捨てさせられるので、自分で捨てるのは不可能です。しかし、聞いている時に「こんな思いは自力の計らいでは?」と自分でも気がつく思いが出てくると思います。「どうやって?」「何もしないのはいかんでしょ?」などはその典型です。こんな思いはいくら廻らせても助かるわけでも何でもない上、その計らいが本願力を撥ねつけているのですから、一旦頭を整理して助ける法をひたすら仰いで下さい。

頭を整理も自力? げろむず

読んでもてぃんぷん

>絶倫棒様

厳密にはそうです。私が言いたいのは、自力探しをしても意味がないので、早く他力の法を聞き受けて下さいということです。
聞くべき「仏願の生起・本末」を簡単に言えば、以下の如くです。阿弥陀仏は法蔵菩薩であられた時に、絶倫棒様1人助けるために五劫の間思惟し、不可思議兆載永劫の間菩薩の行をされ、十劫の昔に絶倫棒様を往生成仏せしめる法を成就されました。それは「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」の名号となって既に絶倫棒様の元へ届いています。その「名号(=必ず助けるぞの仰せ)」を疑いなく聞き受けたのが信心であり、この信心は往生成仏の因となって下されるのです。それからは常に本願を信じ念仏を申して浄土への旅を致すのです。これ以外、煩悩に染まり罪悪にまみれた我々を救う法はありません。
文章を読んでいて意味が分からなければ調べるか質問をして下さい。私も分からないことだらけですが、調べたり人に尋ねてお答えします。

異安心を疑う

実際に他力にすくわれた人などそう簡単にいるものか、と思ってましたが、やはり異安心にみえます。

「他力の信心を通して知らされた」とあり、他力を獲ておられるという宣言と読めますが、自分の信者をすべて奪われ恨みの塊と化した提婆達多の前に出られますか?あるいは刃を向ける弁円の前に出られますか?
>人生を明るくたくましく生きられるかどうかは本人次第で、私自身は明るくたくましくとまではいきません。自分に都合の悪い人、またその命は尊いとも、まして地球より重い命とは思えません。
この言葉から、それはできないようにみえます。

また、まさかと思いますが、
>往生の証拠は、私の聞きぶりや思いにあるのではなく、阿弥陀仏が仕上げて下さった南無阿弥陀仏にあるのです。
この言葉によれば、すでに南無阿弥陀仏ができて(それを信じて)いるから往生は一定なのだ、などという絶対にはまってはいけない、「十劫安心の異安心」に陥ってるように感じられます。
>後生は阿弥陀仏に全託し
これもまさか、阿弥陀仏に全託した、という自力じゃないですよね?
また、「仏願の生起・本末」をみる限り、これも十劫安心そのものと読まざるを得ません。

さらに、
「急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づけ、また虚仮諂偽の行と名づく。真実の行と名づけざるなり。」
これなくして機の深信が立つはずはないでしょう。かくして、
>自力では到底この迷いの世界を離れる縁てがかりを持たない劣悪な凡夫であると深く信じ
と機の深信を意識した言葉があります。
ならば、「急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づけ、また虚仮諂偽の行と名づく。真実の行と名づけざるなり」と深く苦悶・懊悩するほど後生の一大事の解決に急いでも解決できなかった「到底この迷いの世界を離れる縁てがかりを持たない劣悪な凡夫」と知らされた人が、救われた一念がハッキリしない、なんてことがあるでしょうか。
なのに、
>信の一念がハッキリと自覚できるというのは必ずしもそうではありません
とあります。
ここに至っては、きっと素人目にも“(この信心は)ウソだろw”と見られるに違いありません。

長々と書いてしまいましたが、いかがでしょうか。

>みすずゆきと様

別に私を異安心扱いしようと構いません。ただ気になるところがあったので、返事と共にこちらもいくつか質問させて頂きます。


>自分の信者をすべて奪われ恨みの塊と化した提婆達多の前に出られますか?あるいは刃を向ける弁円の前に出られますか?

→それは正直分かりませんね。そういう人が押し掛けてきたこともありませんし。ゆきとさんは、他力信心を獲ると提婆や弁円などのような者の前に出られる、言うなれば非常に勇敢になるとお思いですか? もしそうなら、それは間違いです。勇敢度は信前信後変わりませんし、親鸞聖人のような行動が取れなければ他力信心ではないということではありません。


>また、まさかと思いますが、
>往生の証拠は、私の聞きぶりや思いにあるのではなく、阿弥陀仏が仕上げて下さった南無阿弥陀仏にあるのです。
この言葉によれば、すでに南無阿弥陀仏ができて(それを信じて)いるから往生は一定なのだ、などという絶対にはまってはいけない、「十劫安心の異安心」に陥ってるように感じられます。
>後生は阿弥陀仏に全託し
これもまさか、阿弥陀仏に全託した、という自力じゃないですよね?
また、「仏願の生起・本末」をみる限り、これも十劫安心そのものと読まざるを得ません。

→一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通)

私は、この蓮如上人の御言葉と、加茂師の御言葉をもとに書いたまでです。どうも自分の聞きぶりや真剣さをぶつけて「これで何とかして下さい」とお願いにかかっている人が多く見受けられますので、そういった自力の否定です。「そんなものはあてにならん、私が往生成仏する行も信も南無阿弥陀仏として成就して下さっているのだ、早く南無阿弥陀仏の六字のこころを聞いて信心決定してくれよ」と言いたかったのです。
阿弥陀仏の救いの法は十劫正覚の始めにすでに成就されているということを知っただけで助かるというならそれは十劫安心ですが、私がその法をよくお聞かせいただいて、信心獲得しなけれぱ往生はできません。そのことは他の記事で多く書いているかと思います。


>救われた一念がハッキリしない、なんてことがあるでしょうか。

→では「救われた一念がハッキリする」という根拠をお示し下さい。



それと余談ですが、URLに飛んでみました。救済の頃合いが「宿善の飽和時」って何ですか? 宿善を積んでいって、それがいっぱい貯まったら(飽和したら)救われるとでもお思いですか? それではどっかの会の宿善ポイント制で誤りですよ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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