私信ですが記事にしました(4)

前回に続きまして、今回は

「直来と仰っていても、その対象は三定死の人だ。それまでは火の河・水の河に耐えて白道を進む必要があるのでは」

という疑問について取り上げたいと思います。


まず、親鸞会説かれる「二河白道の譬え」は、善導大師が説かれた「二河白道の譬え」と大分異なるところがあります。

根本から違うのですが、それは別の記事にしたいと思うので、今回は表面上の違いをいくつか示したいと思います。

「二河白道の譬え」は、善導大師が『観無量寿経疏・散善義』の中で教えられています。それを、親鸞聖人は『教行信証信巻』に引文されていますので、譬えの途中から一部みてみましょう。


「死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、

〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉

と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、

〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉

と。この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、

〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉

と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、

〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉

と。この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜず(以下略)」



以上のお言葉から、親鸞会で説くように行者が白道の真ん中くらいまで進んだところで弥陀の呼び声が聞こえるのではないことが分かります。

そして「白道」とは、「願力」のことであり、「信心」のことです。今回は存覚上人の『浄土真要鈔』のお言葉を紹介します。

「二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」(散善義)といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。」

『21世紀の浄土真宗を考える会』「機法一体」と「たすけたまへとたのみ」と「二河白道」との関係も合わせて読んで下さい。

また、親鸞会では「行者には向こう岸が見えない、白道が向こう岸まで届いているか分からない」と、此岸と彼岸を遠く離れているかのように説きますが、「二つの岸あひ去ること近し」と上のお言葉にあります。ですから、遠くはありません。問題は渡るか渡らないかです。

(参照:『21世紀の浄土真宗を考える会』「二岸相去ること近し」


「火の河・水の河に耐えて」ともコメントにありますが、蓮如上人は、

「当流聖人の勧めまします安心というは、何のようもなく、まず我が身の浅ましき罪の深きことをばうち棄てて、もろもろの雑行・雑修の心をさしおきて、一心に「阿弥陀如来後生たすけたまえ」と、一念に深くたのみたてまつらん者をば、たとえば十人は十人、百人は百人ながら、皆もらさず助けたまうべし。これ更に疑うべからざるものなり。かようによく心得たる人を、信心の行者というなり。」(御文章5帖目18通)

「当流の安心というは、何のようもなく、もろもろの雑行雑修の心を棄てて、わが身はいかなる罪業深くとも、其をば仏にまかせまいらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念に深くたのみまいらせて、「御助け候え」と申さん衆生をば、十人は十人、百人は百人ながら、悉くたすけたまうべし。これ更に疑う心露ほどもあるべからず。」(御文章5帖目21通)


と仰っています。

「我が身の浅ましき罪の深きことをばうち棄てて」
「わが身はいかなる罪業深くとも、其をば仏にまかせまいらせて」


と、私の悪い機の方をさしおいて、

「一心に「阿弥陀如来後生たすけたまえ」と、一念に深くたのみたてまつらん者をば」
「ただ一心に阿弥陀如来を一念に深くたのみまいらせて、「御助け候え」と申さん衆生をば」


と、阿弥陀仏に向かいなさいと勧められています。


阿弥陀仏は、「汝一心に正念にして直に来れ」と喚びづくめです。

普通「ただちに」と言った場合は、「至急」とか「何よりも優先してすぐに」という意味でしょう。

「ただちに来い」と命令されているのに道草食って回り道してすぐに行かないのは、「ただちに」の意味が分かっていないのです。

この「直」ということについて、親鸞聖人は

「『直』の言は廻に対し迂に対するなり、また『直』の言は方便仮門を捨てて如来の大願他力に帰せんとなり、諸仏出世の直説を顕わさしめんと欲してなり。」(愚禿鈔)

と教えられています。

方便仮門という回り道をせずに、方便仮門を捨てて、大願他力(18願)に帰せよとの仰せです。

これが、阿弥陀仏が私達に望んでおられる事であり、諸仏出世の直説なのです。

「直来」ですから、「至急救う」、「何よりも優先してすぐに救う」、「ただちに救う」、「そのまま救う」、「只今救う」と喚びづくめということです。

「誰を救うのか?」と言ったらちょこぼさん、貴方の事ですよ。この只今救う本願を、ちょこぼさんに只今聞いて頂きたいと思います。




なお”『半満は半字教(小乗)と満字教(大乗)、権実は権教(方便の教え)と実教(真実の教え)を指す。』 とあり、浄土門も含まれるような気がします”

についてですが、ここでは、

・権教とは聖道門内の権教で、二双四重の教判では竪出のこと

・実教とは聖道門内の実教で、二双四重の教判では竪超のこと

と理解すればよいと思います。

福徳蔵(=『観経』の教え)は、親鸞聖人の教えられているように「浄土を慕い願わせる方便の教え」ですから、要門釈のお言葉を、すでに浄土門の教えを求めている人を誘引されたと解釈すると文章の意味が通らなくなってしまいます。



親鸞会で聞いてきたことを振り返ると、「無駄な日々を過ごしてきた、求めるものが間違っていた」と思われるかも知れません。

私も、親鸞会教義の誤りを指摘されたとき、あまりにショックで一週間ほど眠れぬ日々が続きました。

しかし、親鸞聖人のお言葉を覚えたことは、無駄ではありませんでした。

ちょこぼさんも親鸞聖人のお言葉を覚えたのですから、その正しい意味を知り、只今の救いに遇わせて頂けばよいのです。

幸い、当ブログのリンク先はどなたも素晴らしい方々ばかりですから、わからないことがあれば質問されてはと思います。

阿弥陀仏の真実なる誓願を計らいなく受け入れ、念仏する衆生にちょこぼさんもなって下さい。只今なれるんですよ(^-^)
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No title

親切にお答えいただき、感謝いたします。

親鸞会の断章、捏造、つじつま合わせには心底アキレれました。

信巻の二河白道の箇所は、会員時代に拝読した記憶があります。

しかし親鸞会教義に泥酔していた為、会長の説明通りだと思い込んでしまいました。

今後まだまだインチキを思い知るかと思うと恐ろしいですが、正しい真宗を知る縁に触れられたことを感謝し、前向きに学びなおしたいと思います。

また疑問があればコメントさせて頂きますので、どうぞよろしくお願いします。(^ ^)
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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