第十七願と第十八願との関係

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第一章 阿弥陀仏の本願
 第二節 第十七願と第十八願との関係

 前節で述べた第十八願の法を私たちに説き示すことを誓われたのが第十七願で、これを諸仏称名の願と名づけられる。第十七願の文は、

 設我得仏、十方世界、無量諸仏、不悉咨嗟、称我名者、不取正覚。
 たといわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。(十八)
 (もし、わたしが仏になるとき、十方世界の数かぎりない諸仏が、ことごとくわたしの名をほめたたえぬようなら、わたしは決してさとりを開きません)


というのである。ここでは、阿弥陀仏の名号を十方の諸仏が称揚讃嘆するということが誓われてある。私たちにとって、諸仏の讃嘆の具体的なすがたは、釈尊によって説かれた『大無量寿経』である。「教文類」には、「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもって経の体とするなり」(一三五)と述べられてある。ここで本願といわれ、また名号といわれてあるが、本願と名号とは別のものではない。本願成就のすがたが名号の活動である。すなわち、阿弥陀仏によって成就された名号は、釈尊によって具体的に私たちに説き開かれる。この釈尊の開説が第十七願成就のすがたである。『阿弥陀経』に、六方の諸仏の証誠護念が説かれてあるのもまた同様である。
 ところで親鸞聖人はこの第十七願を真実行の願とし、第十八願を真実信の願とされる。「行文類」の「正信偈」の前には、

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり、その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。(二〇二)

等といわれてある。第十七願には、名号が諸仏にほめたたえられることが誓われてあるが、そのほめられつつある弥陀の名号が真実の行であると示されるのである。「行文類」の標挙に「諸仏称名の願」(一四〇)と掲げられるのはこの意味である。次に真実信の願として「至心信楽の願」を出され、この両願の意を承けて、「これすなはち選択本願の行信なり」といわれている。先に述べたように『教行信証』にあっては選択本願とは第十八願のことであって、第一八願のうえでは乃至十念の称名が行であり、至心・真楽・欲生の三心が信である。これによって、第十八願の乃至十念(称名念仏)と第十七願の名号とは別のものでないことが知られる。このように、阿弥陀仏の名号は諸仏によって称讃せられて、常に衆生の信心となり、称名念仏となって活動している。いいかえると阿弥陀仏の名号は諸仏をして讃嘆せしめて、衆生に信じさせ、称えさせつつあるものである。

(五~七頁)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

3ミリしかわかんない

>絶倫棒様

中々学術的な文章ですよねi-229

釈尊が南無阿弥陀仏を私達に説き示されたというのが17願成就のすがた、それが私達に至り届いて信心となり、往生成仏の因となって下されるのです。南無阿弥陀仏とは「そなたを助けるぞよ」の如来の勅命です。それをそのまま「この絶倫棒を助けるぞよ」と聞くのが信心です。本願力に乗じて、今度の一大事の往生を遂げて下さい。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード