機法一体についてー行信不二、蓮師の機法一体、願行具足と機法一体

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第二章 名号のいわれ
 第二節 機法一体について

 本願の信心は名号に対しておこされる信心である。ここで信心と名号との関係を考えてみると、信ぜられるものが名号であって、その名号を信じるということが信心である。しかし、信心と名号の関係はこれだけでは十分表現されていない。名号は衆生に対して帰せよと呼びかけつつある法であることは、すでに前節で述べた。その名号のはたらきが衆生の心に届いて領解されたのが信心である。それゆえに、「信文類」には、本願の三心のうち至心について、

 この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(二三二)

とある。三心は別々に存在するのではないから、至心の体が名号であるというのは、信心の本質は名号であることを示すのである。また、「信文類」の冒頭には、

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。(二一一)

といわれ、『一念多念証文』には、本願成就文を解釈されて、

 「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。(六七八)

等といわれる。これらの文は、私たちの信心も名号のはたらきによっておこさしめられるものであって、阿弥陀仏の名号のほかに、別に衆生の信心があるのではない旨を示している。これを行信不二という。
 蓮如上人は『御文章』(四帖目第十四通)に、

 まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。……このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。(一一八六)

といわれている。これは、南無阿弥陀仏の六字を二字と四字に分けて解釈し、「南無」は衆生の弥陀をたのむ信心(機)であり、「阿弥陀仏」は衆生をたすくる力(法)とされ、この機法が一体に成就されているのが南無阿弥陀仏の名号であると示されたものである。機とはもともと、法を被る者という意味で、衆生を指す言葉であるが、信心は衆生の上におこさしめられるものであるから、ここでは信心のことを機というのである。したがって、蓮如上人が機法一体といわれるのは、衆生の信心も名号のほかにはなく、名号が衆生の心に届いたのを信心というという意味で、行信が不二であることを示されるのである。
 なお、ここでは南無の二字をたのむ機、阿弥陀仏の四字をたすくる法と、分けて解釈されているが、同じく『御文章』に、

 さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。(六字すべてが機、三帖目第二通、一一三七)
 南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(六字すべてが法、一帖目第十五通、一一〇六)


といわれるように、六字全体が衆生の信心となり、また六字全体が阿弥陀仏の衆生救済のはたらきであることを示されている。
 前節では、願行具足・悲智円具の義を述べ、今節では行信不二・機法一体の義を述べた。いずれも名号の本質をあらわすものである。それぞれの意義をいえば、先の願行具足は、衆生救済の願いも力もすべて、名号に備わっていることを示すものであり、機法一体は、その名号が衆生の上にはたらいて私たちの信心となる旨を明らかにするものである。

(二一~二五頁)
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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