聞信の意義(1)ー仏願の生起本末

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第三章 真宗の信心
 第二節 聞信の意義

 成就文の「聞其名号」について、信一念釈では、

 然経言聞者、衆生聞仏願生起本末無有疑心、是曰聞也。
 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(二五一)


と釈されている。すなわち「名号を聞く」とは「仏願(第十八願)の生起本末を聞く」ということであり、名号の義(いわれ)とは第十八願の生起本末をにほかならない。ここで「生起」とは、阿弥陀仏が何のために第十八願をおこされたかという仏願のおこりである。三一問答では、至心について、

 一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
 ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
 如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。(二三一)

 (すべて私たちは、無始より今日ただいまにいたるまで煩悩にけがれて浄らかな心はなく、うそいつわりでまことの心はない。
 こういうわけであるから阿弥陀如来は、一切の苦しみ悩む衆生をあわれんで、はかり知ることのできぬながい間かかって、菩薩行をなされたとき、身口意の三業に修められたところが、わずか一念・一刹那の間も浄らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことはない。如来は、この浄らかなまことの心をもって、あらゆる徳のおさまっている、心にはかり、口に述べ、文字に説くことのできぬこの上ない智慧の徳を成就せられた。
 この如来の成就された至心、すなわちまことをもって、すべての煩悩・悪業の邪な心の衆生に施しくだされたのである)


と、衆生には本来真実清浄の心がなく(機無)、それゆえ阿弥陀如来が真実清浄の至心を成就され(円成)、衆生に回施されること(回施)が示されている。これは、信楽・欲生についてもほぼ同様である。無限の過去より迷いの世界に沈みつづけ、決してそこから解脱できない衆生があるから、これを悲しまれて第十八願をおこされた。ゆえに生死海に流転する私たちが第十八願の「生起」である。
 次に「本末」とは、法蔵菩薩が一切衆生を救済せんとして発願修行され(本)、その結果阿弥陀仏として成仏されて現在十方の衆生を救済されている(末)という意味である。
 これによって、「聞其名号」の名号とは、迷いの衆生を救済しようという願いによって成就され、現に衆生救済の力としてはたらいている名号にほかならないことが明らかになる。(つづく)
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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