聞信の意義(2)ー聞即信、不如実の聞、聞即信の所顕

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第三章 真宗の信心
 第二節 聞信の意義

(つづき)
 次に「聞く」とは、名号のいわれを聞いて疑いの心をまじえないことである。ゆえに、「疑心あることなし」という。『一念多念証文』にも、

 きくといふは、本願をききて疑うこころなきを「聞」といふなり。(六七八)

とある。先に明らかにされた第十八願の生起本末すなわち名号のいわれを聞き、それに対して疑いのないことが聞である。第十八願が決して迷いの世界から解脱できない衆生のためのものであり、その衆生を救済する力こそが名号であるということに対して疑いをいだかないということは、往生成仏については衆生の力は一切役に立たず、阿弥陀仏の救済にまかせきるということであり、これが第十八願の信心のすがたである。これを聞即信という。
 「聞」という言葉は第二十願にも、

 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。(十八)
 (もし、わたしが仏になったとき、あらゆる人々がわが名号のいわれを聞いて、わが国に念をかけ、諸仏の徳号の根本として名号を称えてもっぱらこれを励み、それを往生の因としてわが国に生れたいと願うなら、それをかならず果たし遂げさせよう。そうでなければ、決してさとりを開くまい)

とある。しかし、ここでは名号のいわれを聞いても、称名を自らの善根として励むのであるから、第十八願の聞とは相違しているといわねばならない。第十八願の聞が衆生救済の力である名号にすべてまかせるという信と同義であるのに対し、第二十願の聞によって生ずる信は自らが名号を称える力によって往生しようとする自力信である。ここで、聞かれる名号のいわれは第十八願と第二十願と異なるものではないが、第二十願の聞は名号のいわれを聞きそんじた不如実の聞であるということになる。
 親鸞聖人が聞即信と解釈されることには、二つのことが明らかにされている。一つには聞が信であることが明らかにされ、二つには信が聞であることを明らかにされるのである。聞が信であることを明らかにするとは、第十八願の聞は、自らのはからいをまじえる第二十願の聞とは違い、本願の生起本末をそのとおりに信受する聞であることを明らかにすることである。また、信が聞であることを明らかにするとは、第十八願の信は自らつくりあげる信ではなく、お聞かせいただいた名号のいわれをそのままうけとる信であることを明らかにするものである。これは第十八願の信が阿弥陀仏によって回向される他力の信であることを示している。

(三三~三八頁)
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平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
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