上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく

本日は『愚禿鈔』より親鸞会教義の誤り(雑行の勧め)について学んでみたいと思います。

【73】 また雑の観仏について、二種あり。また真仮あり。
一には無相離念、      二には立相住心なり。
【74】 また雑の散行について、三福あり。
一には、孝養父母・奉事師長・慈心不殺・修十善業なり。
二には、受持三帰・具足衆戒・不犯威儀なり。
三には、発菩提心・深信因果・読誦大乗・勧進行者なり。
【75】 上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。(愚禿鈔)


観仏、三福等の行について述べられた後、「上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく」と仰っています。つまり、定散二善を勧めることは、イコール雑行を勧めることです。親鸞会が雑行を勧めていることがハッキリいたします。雑行を勧める親鸞会は、断じて浄土真宗ではありません。
ところで、お手紙の中では親鸞聖人が定散二善について

定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。(末灯鈔)

と仰っています。定散二善は諸行往生のことばにおさまり、定散二善を行ずる自力の行人は、臨終の来迎を期せずしては化土往生もかなわないと教えられています。本願(18願)の救いを目指して定散二善を行ぜよなどという教えは、他力念仏往生、平生業成を説かれた親鸞聖人の教えからは出てきようがありません。
話を『愚禿鈔』に戻します。「もとよりこのかた浄土の業因にあらず」とは、もともと定散二善は浄土往生の業因ではないということです。一方、報土往生の真因である他力信心は本願力廻向の信心であり、定散二善にいくら励んだところで獲られるものではありません。本願の救いは我々の善悪の行為とは無関係であって、阿弥陀仏からの一方的な働きによるものです。それを疑って自力の善をあて力にしているから、雑行と嫌われ捨てよと言われるのです。
「これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく」とあるように、もともと浄土往生の行ではない定散二善は、浄土に往生したいと発願し、心を浄土に向けなければ往生の行にはなりません。正当な往生の行ではないから、「ゆゑに浄土の雑行と名づく」と言われています。これは自力の執着が強く浄土を願わない者のために、浄土を願わせ、心を浄土へ振り向けさせるために説かれた権仮方便の教説であるということです。ですから、人によってこの教説が必要な人もいるのです。
しかし、既に親鸞聖人の教えを聞いて真実浄土を願うようになった人には、この法門は還って廃せられるものです。定散二善の教えを、「浄土の要門」、「浄土の方便仮門」とも言いますが、「浄土の雑行」とも言うことがそれを物語っています。「ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり」のお言葉の通りです。
なお「浄土の雑行」ということは、『教行証文類』にも言われています。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。(化身土文類)

親鸞会では19願の法門を要門であると言い、要は「重要」の要、「必要」の要、「かなめ」であると教えてやらなければならないものであるように説きます。しかし、会員さんは「浄土の要門」=「浄土の雑行」であるということを知っているのでしょうか? あるいは知っていても思考停止してひたすら高森学徒の本道を驀進しているのでしょうか? 本人さんは「親鸞学徒」のつもりでも、このように親鸞聖人の教え勧めと真逆な教えに就き従っているのですから、「親鸞学徒」ではなく「高森学徒」です。いざ後生となれば高森会長も親鸞会もただの丸太、板切れです。今は大丈夫としがみついていても、所詮は浮いたものですから安心も満足もありません。やがてクルっとひっくり返って潮水を飲んで苦しみ、そして土左衛門になるだけです。このまま騙され続けて臨終を迎えねばならないとなったら後悔あるのみです。早く偽の浄土真宗を説く団体から離れて、真実信心に基づき本願を信じ念仏を申す会員さんが一人でも多く現れることを願っています。
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ぴっぴろぴ

ぴっぴろぴ

雑行を以て雑行を制す?

かつて親鸞会で「善を捨てるには、善をとことんやらねばならぬ」と聞いた時は、大いに納得もし、感動すら覚えていました。(といても、積極的に活動するような優秀な会員ではありませんでしたが)
「確かに、自分で実地にやってみて、それでダメと分かれば捨てようとせずとも自動的に手放せるはず。また、これなら因果の道理(善因善果)に対してもギリギリセーフで抵触しない(?)だろう」というように納得していました。もちろん、当時の私も高森先生信心を強く持っていたのでその影響も大きかったのでしょう。
もしも、会員現役時に、「雑行を捨てるには雑行をとことんやってみなければならない」と聞かされていれば違和感や不審感を持ち、もっと早い時期に親鸞会教義に疑問を持つことができたかもしれません。
ですので、親鸞会にその教義を見直すことを望めないなら、せめて(不謹慎かもしれないけれど)「雑行を捨てるには雑行をとことんやってみなければならない」と会員さんに説教してもらいたい。そうしたら、違和感を覚える会員さんも出てきて、覚醒が促されるのではないでしょうか。その時は、淳心房さんも更に鋭いツッコミを入れて下さるでしょうし(^-^)v、あちこちで火の手が上がると思うのです。それこそ打てば響くが如く。

No title

現在の会員の多くは 救われる 事を リアル に考えていません。
「信心決定をリアルに考えていますか?」と 質問すると たいがいの人は
返答に困ります。
問われた事もなく 考えた事もないのでしょう。

真面目に救いを求めていた人達の 多くは退会しています。
今残っている人たちは 信仰を進めたいと思っている人、とことん会長を
信じている人 深く考えずに真実を求めている自分に酔っている人 等
ですが その人達にとことん 善を勧めれば 命すら投げ出して 会長、 組織に
尽すでしょうね。 

なんせ 救われるのは 二の次になっていますから。
活動する事に 安心を求めている人達です。
聖典を読む人がいない今、間違いに気が付く人は 今までより少なくなるでしょう。
MCの 恐ろしいところです。
そんな人達にもっと 善 をせよって言ったら 退会者も出ますが
活動死する人も 出そうです。


落慶で約8000人強と聞きました。約6年で 1000人以上は 新しい人が
会員になっているでしょう。
しかし、今年の初聞法会では 4000人前後です。
今の中途半端な 会長の話が 一番不信感を 呼ぶようにも思います。

ですから 何かきっかけがあると 退会者は 加速的に増えると思います。

すみません 広島の名無し様の ご意見に反対という訳ではありません。
講師の中には とことん善(雑行)をするって言う言い方に 
「それはちょっと…真剣に善をしましょう」と 言いなおします。
会長の言い方が正しい らしいです。
相手によって 有効な言い方があるようです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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