ふと疑問に思ったこと

ふと疑問に思ったことですが、親鸞会では『大無量寿経』五悪段の、

心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。

という第五の悪人の部分を断章して「全ての人間は心も口も体も悪ばかり造り、かつて一善も無い」と説きます。「心も口も体も悪ばかり造り、かつて一善も無い」という点で、全ての人間は同じだということになります。一応こうした親鸞会の説を裏付ける根拠を挙げておきますと、『なぜ生きる』に、

「すべての人間は、はじめなき昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄な心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくない」
 もちろん、聖人の言われる「一切の群生海」に入らぬ者は、どこにもいない。
 どうして万人のことを、かく断言できたのか。
 最深の意味で一人は万人であり、一は一切である。一人の上に突き止められた真実は、すなわち万人の真実であり、一の上に体験される究極の真理は、すなわち、一切の上に体験されるべき究極の真理なのだ。聖人は自己の真実を通して万人の真実を読み、一身の真理に即して一切の真理を道破されたものであろう。(p.268~p.269)


というくだりがあります。「すべての人間」「万人」ですから、龍樹菩薩も、善導大師も、親鸞聖人も、皆さんも、私も、そういう点では平等だということになりましょう。
しかし、「一切衆生必堕無間」の珍説を強調する時には、

・一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念々になすところこれみな三途の業なり。
(※上のお言葉は善導大師のお言葉と親鸞会では教えますが、違います。『21世紀の浄土真宗を考える』何度言ったら分かるのか参照)
・いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄)

のお言葉をしばしば用いて、

「善導大師でさえ念々になすところはみな地獄行きの種まきだと仰っている(※「三途の業」ですから、地獄に限定されません。しかし親鸞会は「一切衆生必堕無間」を肯定するためこのように説きます)。親鸞聖人でさえ地獄は一定すみかと仰っている(※これも無間地獄と仰っているのではありませんから「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません)。この中に善導大師や親鸞聖人より偉い者がいるのか」

などと説いて、人間の間に優劣があるかのように話があります。余談になりますが、逆に弥陀の救いを示すときには、

「親鸞聖人は、『おーい。みんな。ここに難度海を度する大船があるぞ。こんな親鸞でさえ助かったのだから、皆さんも早くこの大きな船に乗って下さいね』と仰っている」

と、親鸞聖人を最下の人に見て話がされる時があります。

一方では「一人は万人だ」などと説きながら、一方では地獄に堕ちるという時には「親鸞聖人でさえ・・・」と優劣があるように説く。仏教では心を重く見ると言いながら、この世での功績・逸話などで人間の優劣を計る。なんかおかしいなと思ったことです。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

洗脳組には脅しになるみたいだよねおらは、どこさ行くにしろ、氏ぬのイヤだし

ひつだむけんはどこにもないし、こだ●は、おーだむけんを示すし

No title

その疑問は ここに通じているのではないですか。

問題です。
教学聖典(1)

問28 仏教で教える1番重い罪から順序よく三つあげよ。
答   (1)謗法罪(2)五逆罪(3)十悪

教学聖典(2)

問33 罪に大小なし と教えられたお言葉と、その根拠を示せ。
答   もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずということなし。

この問いと答えの是非は置いといて、矛盾していますよね。
方や 罪に重い軽いがあると言い 方や罪に大小が無い と言う。

この 答は 罪に大小なし が正しくて 罪に重い軽いがある と
言うのは 方便とS会では 教えています。


間違っていたらごめんなさい。<m(__)m>

>絶倫棒様

高森会長、上司に無条件服従の団体ですから恐ろしいですよねi-229
観経で挙げてくる箇所は「応堕地獄」です。覚えて下さいね。

>ため息様

そこは思いつきませんでしたi-229

「この 答は 罪に大小なし が正しくて 罪に重い軽いがある と
言うのは 方便とS会では 教えています。」
そうなんですか? 自分はこの二つの問題の矛盾は気にもしてなかったです。

ところで、口伝鈔のお言葉ですが、

一 罪は五逆・謗法生るとしりて、しかも小罪もつくるべからずといふ事。

 おなじき聖人(親鸞)の仰せとて、先師信上人(如信)の仰せにいはく、世の人つねにおもへらく、小罪なりとも罪をおそれおもひて、とどめばやとおもはば、こころにまかせてとどめられ、善根は修し行ぜんとおもはば、たくはへられて、これをもつて大益をも得、出離の方法ともなりぬべしと。この条、真宗の肝要にそむき、先哲の口授に違せり。まづ逆罪等をつくること、まつたく諸宗の掟、仏法の本意にあらず。しかれども悪業の凡夫、過去の業因にひかれてこれらの重罪を犯す、これとどめがたく伏しがたし。また小罪なりとも犯すべからずといへば、凡夫こころにまかせて、罪をばとどめえつべしときこゆ。しかれども、もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし。しかるに小罪も犯すべからずといへば、あやまつても犯さば、往生すべからざるなりと落居するか、この条、もつとも思択すべし。これもし抑止門のこころか。抑止は釈尊の方便なり、真宗の落居は弥陀の本願にきはまる。しかれば小罪も大罪も、罪の沙汰をしたたば、とどめてこそその詮はあれ、とどめえつべくもなき凡慮をもちながら、かくのごとくいへば、弥陀の本願に帰託する機、いかでかあらん。謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはものにあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。しかれば、「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)と釈せらるる、このゆゑなり。

この文脈から「罪に大小なし」と教えられたお言葉ではありませんね。親鸞会の断章主義がここにも出ています。

片や、罪に大小なし
こなた、罪の重い

この矛盾、ただしくは?
おらは、聖典1が、矛盾だらけで挫折したし

珍説に反論!

必堕無間は、珍説ではありません。

明治の妙好人・安川庄兵衛は、こう述べています。

「地獄行きに候えば、かわる気づかいのなきものに候、必堕無間は間違いなき事に候。」

と、はっきり述ベ、「必堕無間は間違いない」と断言してしますよ!

それでも必堕無間は、珍説ですか?

そうなら、安川庄兵衛は、珍説を述べたことになりますよ!

さらに、必堕無間について、他の妙好人は、違う言葉で、こう述べています。

「信のない人地獄行き」(中畑小市)
「念仏ない人地獄行き」(浅原才市)

それでも必堕無間は、珍説ですか?

そうなら、妙好人は、珍説を述べたことになりますよ!

No title

ヒロシさんへ

「必堕無間」は、言われることは確かにありますよね。華光会でも言っています。しかし、「一切衆生必堕無間」とまでは言っていないと思います。

この違いが大違いです。

「一切衆生必堕無間」なら、
龍樹菩薩も必堕無間。
定善のできた善導大師も必堕無間。
上品上生の往生を遂げた智覚禅師も必堕無間。
下品上生の人も必堕無間。

もう無茶苦茶ですよ。


あと、地獄と無間地獄も違いますよ。

「名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。」(御消息)

信のない人が地獄行きなら、親鸞聖人は珍説を述べたことになりますよ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード