片や、罪に大小なし こなた、罪の重い この矛盾、ただしくは?

ふと疑問に思ったことの記事に絶倫棒様から質問を頂きました。今回はそれについてお答えしたいと思います。

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片や、罪に大小なし
こなた、罪の重い

この矛盾、ただしくは?

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この質問はため息様のコメントをご覧になっての質問だと思われます。

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教学聖典(1)

問28 仏教で教える1番重い罪から順序よく三つあげよ。
答   (1)謗法罪(2)五逆罪(3)十悪

教学聖典(2)

問33 罪に大小なし と教えられたお言葉と、その根拠を示せ。
答   もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずということなし。

この問いと答えの是非は置いといて、矛盾していますよね。
方や 罪に重い軽いがあると言い 方や罪に大小が無い と言う。

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確かにこの二つの設問は矛盾しています。
これは、後者の文章の解釈が間違っているのです。この『口伝鈔』のお言葉は、「罪に大小なし」と教えられたお言葉ではないのですが、高森会長が「一切衆生必堕無間」の珍説を裏付ける根拠として、前後の意味を弁えずに断章したのでしょう。このお言葉は、『飛雲』会員との問答(五逆罪、謗法罪について)に現代語訳もついて載せられていますので、そこから引用します。

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一 罪は五逆・謗法生るとしりて、しかも小罪もつくるべからずといふ事。

 おなじき聖人(親鸞)の仰せとて、先師信上人(如信)の仰せにいはく、世の人つねにおもへらく、小罪なりとも罪をおそれおもひて、とどめばやとおもはば、こころにまかせてとどめられ、善根は修し行ぜんとおもはば、たくはへられて、これをもつて大益をも得、出離の方法ともなりぬべしと。この条、真宗の肝要にそむき、先哲の口授に違せり。まづ逆罪等をつくること、まつたく諸宗の掟、仏法の本意にあらず。しかれども悪業の凡夫、過去の業因にひかれてこれらの重罪を犯す、これとどめがたく伏しがたし。また小罪なりとも犯すべからずといへば、凡夫こころにまかせて、罪をばとどめえつべしときこゆ。しかれども、もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし。しかるに小罪も犯すべからずといへば、あやまつても犯さば、往生すべからざるなりと落居するか、この条、もつとも思択すべし。これもし抑止門のこころか。抑止は釈尊の方便なり、真宗の落居は弥陀の本願にきはまる。しかれば小罪も大罪も、罪の沙汰をしたたば、とどめてこそその詮はあれ、とどめえつべくもなき凡慮をもちながら、かくのごとくいへば、弥陀の本願に帰託する機、いかでかあらん。謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはものにあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。しかれば、「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)と釈せらるる、このゆゑなり。


(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞聖人全集 別冊』より)

一、罪は五逆・謗法を犯しても、浄土に生れることができると思って、しかもどんな小さな罪もつくってはならない、ということ。

同じ聖人の仰せであるといって、なくなられた師、如信上人が仰せられた。

世間のひとはつねに「どんな小さな罪でも、罪を恐ろしく思って、止めようと思えば心のままに止めることができ、善のたねは修め行おうと思えば蓄えることができて、これによって、阿弥陀仏の大きな恵みをうることもでき、またこれが迷いの世界を逃れる方法ともなるだろう」と思っている。しかしこの考えは、真宗の教えの根本にそむき、また先哲の口ずからお説きになったこととも違っている。まず、五逆罪などを造ることは、まったく諸宗の掟にふれるもので、仏法の本意ではない。しかしながら、悪を犯した愚かなひとは、その過去の宿業の原因にひかれて、これらの重罪をおかすのであって、これを止めることもおさえることも困難である。
また、「小さな罪であっても犯してはならない」と言うときは、愚かなひとでも思い通りに罪を犯さないでいることができる、とも受け取られる。しかしながら、もともと罪そのものを本性とする愚かものである以上、大・小の差別なく、身に行うこと、口に言うこと、心に思うこと、すべてが罪でないものはない。ところが、「小さな罪も犯してはならない」と言うときは、過って犯しても浄土に生れることはできない、と結着するものか。この点、よくよく考えをめぐらさなければならない。これは、仮に抑止する意味であろうか。抑止は釈尊の方便である。
しかし真宗の落ち着くところは阿弥陀仏の本願以外にはない。だから、小罪も大罪も、罪の詮索がしたいならば、どんな罪も犯さないでこそそのかいがあるので、犯さないでいることもできないあさはかな智慧を持ちながら、このように言うときは、阿弥陀仏の本願に帰して、身を託するものがはたしているだろうか。謗法の罪はまた仏法を信ずる心がないことからおこるものであるから、もともと浄土に生れる素質のあるものではない。しかし悔い改めるならば、生れることができるものである。だから、「謗法や闡提も回心すれば、みな浄土に生れる」と解釈されるのはこのためである。

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前後の文章を見れば分かるように、「罪に大小なし」と教えられたお言葉ではなく、「私達の三業で為すことは、大・小の差別なく罪でないものはない」と教えられたお言葉です。
罪にも五逆や謗法という無間地獄に堕ちる大きい罪もあれば、それらに比べると小さい罪もあります。ですから、「罪に大小なし」というのは珍説だということがお分かり頂けるでしょう。こんなことを説いている団体ですから、「嘘をついてでも真実が伝わればいい」とでも思って親鸞会だと言わずにキャンパスで偽装勧誘をしているのです。

なお、「私達の三業で為すことは、大・小の差別なく罪でないものはない」と言うと、「心で親をそしるのも五逆罪では?」と会員さんは思うでしょうから、改めて『飛雲』会員との問答(五逆罪、謗法罪について)をご覧頂ければと思います。
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うーむ 簡単に言うと難しい

No title

詳しい解説ありがとうございます。

この「罪に重い軽いが有るというのは方便」
とは 弟のTが 支部の教学勉強会
で10年ほど前に 言ってました。

会長の深い御心 方便 善 等 人を騙すのに
都合のよい言葉の オンパレードです。

>絶倫棒様

罪には大・小があるということが分かって頂けたらよいです。

>ため息様

「罪に重い軽いが有るというのは方便」

というのは聞いたことがありませんが、講師がそう答えるということは高森会長の教えでしょうね。公式にそう教えられているか分かりませんので何とも言えませんが、根拠を示して頂きたいですよね。根拠を示せないならまた一つ珍説発見です。

ちなみに『観経』で九品の往生があるというのは、上品上生から下品下生まで差別なく同じ浄土往生を遂げると聞くと、悪人が怠けて善をしなくなるのでそれを未然に防止するための釈尊の巧みなご方便であると法然聖人は解説されていますが、それとは違うようです。

大小なしの意味は?

>絶倫棒様

大小なしと言っているのは親鸞会ですから、私は存じません。親鸞会の会員にでも聞いてみて下さいi-235

ちんぷん
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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