葬儀に参列してきました

1月14日のことですが、妻の身内に不幸があり、葬儀に参列してきました。礼服も何も用意していなかった私は仕事の合間の準備で大忙し、しかも夜行バスで向かったのでろくに寝られませんでしたし、何よりもバスや電車の待ち時間が寒くて寒くて・・・-30℃の寒気が日本列島を覆っていたようで、相当着こんでいたのに寒さで震えました。

妻の実家は浄土真宗なので、浄土真宗のお坊さんを呼んでのお葬式でした。最初は近所のセレモニーホールで葬儀を営みました。現在親鸞聖人750回大遠忌で本来来てくれる寺の住職さんは呼べなかったらしく、若いお坊さんを中心に僧侶3人で大無量寿経、正信偈、白骨の章などを拝読していきました。後ろの年配のお坊さんが「次は○○」と小声で若いお坊さんに指示していたのが身内の参列席から見えて「何だぁ?」と少し興醒めでしたが、棺を開けて故人を目の当たりにした時はさすがに世の無常を強く感じました。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


まさに蓮如上人のお言葉そのもので、「これが未来の俺の姿だ」「今は見送る立場だが、やがて見送られる立場になるのだなぁ」と思いました。

やがてセレモニーホールから火葬場へ同行し、一つまみの白骨となった故人を見たらまた「白骨の章」が頭に浮かび、お念仏称えました。それから妻の実家へ行き、再度葬儀を営みました。20名ほどの身内の参列者全員に正信念仏偈の本が配られ、お坊さんと一緒に拝読しました。親鸞会でのおつとめの節しか知らなかったので少し音程が違う部分があって戸惑いました。六首和讃も故意に変えられたものではなく仏徳讃嘆の御和讃で、音程が分からず小さめの声でしました。それでも周囲よりは大きい声だったらしく、式が終わってから近くの人に「何で読めるんですか? お坊さんが隣にいるみたいでした」「若いのにお経様を読めるなんて、小さい時から読んでいたんですか?」と質問され少し恥ずかしかったです。
なお漢文の下には現代語訳がついており、阿弥陀仏の救いを短い言葉で表現されていて「正信偈は本当にありがたいなぁ」と思いました。お坊さんも「生あるものは必ず死に帰す」「世の無常を念じ、・・・」などとよいことも言っていたのですが、参列者に向かって法を説くことはなく終了しました。せっかく親類縁者の皆さんが集まり無常を見つめるいい機会なのだから、たとえ少しでも説法をしないともったいないと思いました。お経や正信偈は死者にたむけるものではなく、生きている私達が聞かねばならないことを皆さんに知って頂きたかったです。お坊さんにも色々と質問したかったですが、さすがに妻の実家の葬儀ですし、外の人間がでしゃばるのも葬儀のぶち壊しになるため控えましたけどね。。。

その後食事をして帰りましたが、新幹線に乗ったらもう無常観はどこへやら。都会の忙しい雰囲気と上司からの着信に、元に戻されました。無常を無常とも思わず、罪悪を罪悪とも感じず、忙しい忙しいで死出の旅路をしているのが私を含めた世の人の姿です。ところが、親鸞聖人の教えを聞いて本願力に遇った人は空しく過ぎる人はなく、人生を浄土の旅にして頂いて、一息切れた臨終一念の夕に無上涅槃の極果を得ることができます。本願力に遇うとは「必ず助ける」の大悲招喚の勅命を計らいなく聞き受けたことであり、本来は後生また迷いの世界で苦しみ悩むはずの身がひとえに本願他力によって迷いの打ち止めをさせられます。その後は一生涯念仏を相続し、後生の心配は阿弥陀さまに委ねてくつろがせて頂けます。「死んだらどうなるのか?」「必ず死なねばならぬ人生、何のために生きるのか?」と疑問に思う方は、ぜひ親鸞聖人の教えを聞いて頂きたいと思います。

本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃)


拝読したこの御和讃が心に残りました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


P.S. ただし、間違っても親鸞会には迷わないよう気をつけて頂きたいところです(笑)
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うちの基地外たちは、葬式の意味を勘違いしてる上、通夜に喪服とかのDQN

葬式って、生きてる人のためだしょ?

>絶倫棒様

私も同感です。葬式は生きている人のためにするものだと思います。
死者の冥福を祈る遺族や参列者の気持ちはよく分かりますが、盛大な葬式や読経、回忌法要等によって死者が極楽へ往くとか、苦しい境界に陥っているならそこから脱せられるとか、そういうことは教えられていませんからね。死者を縁に無常を見つめ、一心に弥陀に帰命して今度の一大事の往生を遂げる葬儀だとしなければ実にもったいないと感じます。

No title

奥様の御身内の御不幸、ご愁傷様でした。
察するところ、奥様の御実家は本願寺派でしょうか?
親鸞会の正信偈の節は本願寺派の節に近いですね。
本願寺派の正信偈の節は草譜(そうふ)と行譜(ぎょうふ)が主に使われます。
お勤めの本の正信偈の句にヒゲみたいなものが書かれています。
左が行譜、右が草譜です。
草譜は四句目毎に音程が下がります。(親鸞会と同じです)
しかし「中夏日域之高僧」の部分は音程はそのままです。
行譜は四句目は下がらす「中夏日域之高僧」の部分の音程は上がります。
善導章からの部分は、行譜はヒゲの通り音程がかなり上下します。
草譜は下丸部分から音程が下がります。
親鸞会の節は、源信章までの部分は草譜と行譜の混ぜ合わせ、善導章からの部分は草譜をベースに親鸞会が独自にアレンジ(少し大谷派が入っています)したものです。
日常の勤行は草譜です。
正信偈の節は真宗各派で異なります。
節に音程上下するものは墨譜(ぼくふ)と呼ばれ、棒読みは舌々(ぜぜ)と呼ばれます。(長さを変えてアクセントをつけます)
仏光寺派は普段は舌々を使っています。
各派まちまちなので、昭和47年の親鸞聖人ご生誕800年の時に真宗十派で作る真宗教団連合が共通の正信偈として「和訳正信偈」を作りました。
お勤めの本の下の部分はそれだと思います。
ご和讃も讃阿弥陀仏偈和讃からの6首が良いですね。
念仏の部分も微妙に親鸞会と違いますね。
ところで、淳心房様は普段の勤行は親鸞会の節でされていますか?
別に親鸞会の節が悪い訳ではないのですが、本願寺派の草譜を覚えられれば良いと思います。
YouTubeに本願寺派の草譜と大谷派の節が出ています。
ネットで「正信偈」と検索すれば出てくると思います。
私の家は禅宗ですが、葬式の時には簡単な説法をします。
真宗のお葬式に出た事がないのですが、全く説法がないならば、残念ですね。

訂正

すみません、先ほどのコメントで「源信章」は「道綽章」の間違いです。

>淀川コナン様

ご解説ありがとうございます。確か本願寺派で、正信偈の節もTS会と近かったです。親鸞会流の節しか知らないので、本願寺派の節を聞いて覚えたいと思います。

仏前で何か言うは言っていた(中々よいこと言っていたんですが忘れました…)のですが、参列者に向かって説法というのはありませんでした。禅宗はあるんですね。真宗も葬儀を縁に門徒を勧化すればよいのにと思いました。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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