現生正定聚について(1)-即得往生、信益同時、現生の利益
『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用
第五章 念仏者の利益
第二節 現生の利益
イ、現生正定聚について
第十八願成就文には、「信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生」とある。この「即得往生」について、親鸞聖人は、
「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。(『一念多念証文』六七八)
と釈され、即得往生を真実信心をえて正定聚の位につくことであると示される。この正定聚に聖人は「往生すべき身とさだまるなり」(六七九、脚註)「カナラズホトケニナルベキミトナレルトナリ」(『原典版』七八一)と左訓されるので、正定聚とは、まさしく往生成仏することに決定した聚(なかま)という意味であることが分かる。
さて、この『一念多念証文』の文には、「ときをへず、日をもへだてぬなり」「すなはち、とき・日をもへだてず」とあり、信心をうるその時に正定聚の位につくという利益をうることが示されている。これについては、第三章第一節において、名号が衆生に至り届いた時である信の一念に、往生が決定することをすでに述べた。すなわち、信心をうるのと、利益をうるのとは同時であり、浄土真宗における信心の性格が単に死後の利益のみを期待するものや、将来の利益を祈るものなどではないことが明らかであろう。
親鸞聖人は、「信文類」に、
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものをか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八には知恩報徳の益、九つには常行大悲の役、十には正定聚に入る益なり。(二五一)
(金剛の信心を得たならば、他力によって、未来のさまたげとなる五趣・八難の道を超え、この世では、かならず十種の利益を得させていただくのである。何がその十であるかというに、一つには、目に見えぬかたがたのお護りをうけるという利益。二つには、この上もない尊い功徳がそなわるという利益。三つには、罪悪を転じて名号の功徳に一味になるという利益。四つには、諸仏に護られるという利益。五つには、諸仏にほめられるという利益。六つには、弥陀の光明におさめとられて常に護られるという利益。七つには、心に法の喜びが多いという利益。八つには、如来の恩を知って報謝の生活をするという利益。九つには、常に如来の大悲をひろめる徳をいただくという利益。十には、仏になることの定まった位に入るという利益である)
と示され、また、「念仏正信偈」には、
また現生無量の徳を獲。(『浄土文類聚鈔』四八六)
と歌われる。すなわち、(1)正定聚の位につくという利益、(2)十種の利益、(3)無量の徳をうるという利益が示されているが、現生にうる利益の要を言えば正定聚の位につくというものであり、略して言えば十種の利益に摂まり、広く言えば無量の徳ということになろう。(つづく)
第五章 念仏者の利益
第二節 現生の利益
イ、現生正定聚について
第十八願成就文には、「信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生」とある。この「即得往生」について、親鸞聖人は、
「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。(『一念多念証文』六七八)
と釈され、即得往生を真実信心をえて正定聚の位につくことであると示される。この正定聚に聖人は「往生すべき身とさだまるなり」(六七九、脚註)「カナラズホトケニナルベキミトナレルトナリ」(『原典版』七八一)と左訓されるので、正定聚とは、まさしく往生成仏することに決定した聚(なかま)という意味であることが分かる。
さて、この『一念多念証文』の文には、「ときをへず、日をもへだてぬなり」「すなはち、とき・日をもへだてず」とあり、信心をうるその時に正定聚の位につくという利益をうることが示されている。これについては、第三章第一節において、名号が衆生に至り届いた時である信の一念に、往生が決定することをすでに述べた。すなわち、信心をうるのと、利益をうるのとは同時であり、浄土真宗における信心の性格が単に死後の利益のみを期待するものや、将来の利益を祈るものなどではないことが明らかであろう。
親鸞聖人は、「信文類」に、
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものをか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八には知恩報徳の益、九つには常行大悲の役、十には正定聚に入る益なり。(二五一)
(金剛の信心を得たならば、他力によって、未来のさまたげとなる五趣・八難の道を超え、この世では、かならず十種の利益を得させていただくのである。何がその十であるかというに、一つには、目に見えぬかたがたのお護りをうけるという利益。二つには、この上もない尊い功徳がそなわるという利益。三つには、罪悪を転じて名号の功徳に一味になるという利益。四つには、諸仏に護られるという利益。五つには、諸仏にほめられるという利益。六つには、弥陀の光明におさめとられて常に護られるという利益。七つには、心に法の喜びが多いという利益。八つには、如来の恩を知って報謝の生活をするという利益。九つには、常に如来の大悲をひろめる徳をいただくという利益。十には、仏になることの定まった位に入るという利益である)
と示され、また、「念仏正信偈」には、
また現生無量の徳を獲。(『浄土文類聚鈔』四八六)
と歌われる。すなわち、(1)正定聚の位につくという利益、(2)十種の利益、(3)無量の徳をうるという利益が示されているが、現生にうる利益の要を言えば正定聚の位につくというものであり、略して言えば十種の利益に摂まり、広く言えば無量の徳ということになろう。(つづく)
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