会員の皆さんは、五逆のもの、謗法のものではありません(2)-謗法罪について

親鸞会における謗法罪の定義は、

・「仏教なんて迷信だ、邪教だ」とそしる
・善知識をおろそかに思う
・(高森会長の説法を)居眠り聴聞する、あるいは居眠り半分に聞く
・「どれだけ聞けばよいのだろう」「聞かなければよかった」と不平に言う、不平に思う
・「今日の話は長かった、短かった、分かりやすかった、分かりにくかった」と(高森会長の話を)評価する
・インターネットで親鸞会のことを非難する


などで、一つでも犯せば謗法罪ということになります。五逆罪と同様、10分間説法や親鸞会で聞いてきたことを参考にまとめました。親鸞会で根拠としているお言葉が、

1、善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。(末灯鈔)
2、殺るよりも おとらぬものは 思う罪(?)
3、念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞときたまふ(正像末和讃)


等ですが、これらも五逆罪と同様に断章主義とこじつけです。
1については五逆罪と全く同じで、親鸞聖人は善証房などの親をののしり聖人をそしっていたような五逆、謗法のものとは同座してはならないと教えられています。末灯鈔は関東各地の門弟にあてられたお手紙ですが、門弟の方々は五逆、謗法のものではない前提で書かれているのは明らかです。もし門弟の方々が五逆、謗法のものなら、「善証房はこういう悪いやつだが、実は皆さんも善証房と同様に五逆、誹謗のものなのです」という内容の文章が一つ位あってもいいものです。が、そのような文章は宗祖の上には見当たりません。
2についても五逆罪と全く同じです。ちなみに謗法罪の定義は、

 問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。(浄土論註)


で、仏や菩薩そのもの、あるいは仏や菩薩の教えを否定すること、またそのような考えを自分自身でおこしたり他人に教えられてその通りと心に定めることを誹謗正法というのです。親鸞聖人の教えを公然とねじ曲げる高森会長は誹謗正法の者と言えるでしょうが、それは確信犯的一部の人間です。
3については、念仏誹謗のものは無間地獄に堕ちるのであって、全人類が念仏を誹謗しているわけではありません。親鸞会的理論では「心では念仏を謗っている」などと言いますが、拡大解釈にもほどがあります。

一切衆生必堕無間と説いて会員を恐怖させ、会に縛り付け、助かりたいなら善をせよと献金や勧誘をやらせ、偽の親鸞聖人の教えを説いているのが親鸞会であり、高森会長です。『光に向かって』の話ではありますが、釈尊は説法の最中に居眠りしたアナリツ尊者に「お前は今謗法罪を造った。後生は必堕無間だ」などとは教えられていません。ですから、高森会長の話で居眠りしたり、不平を言ったり、説法の内容を評価したりしても謗法罪とはいいません。それどころか邪説が耳に入りませんから、どんどん居眠りして頂いてかまいません。まぁ出かけていって寝る位なら、行かない方がマシですけどね。
インターネットに親鸞会批判をしたところで、事実無根の偽情報はいけませんが、それでも謗法罪とはなりません。ちなみにある幹部会員が「批判サイトを見るのは謗法罪だ」と言っていましたが、その理屈でいえばサイトの存在と内容を知っているその幹部会員、ネット対策員、高森会長は謗法罪を犯しまくっている狂人と言えるでしょう。自分が言っていることがいかに矛盾に満ちているか、無理を承知ですが、気づいて悔い改めてほしいと願わずにはいられません。

なお、自分の心を見つめて、「自分は五逆、謗法の塊だ。必堕無間の者だ」と内省するのはけっこうなことです。罪悪観のない人に宗教心はまたないですから。しかし、人に説いて恐怖させ、組織に縛り付けるやり方はとんでもありません。更に、解決のために献金と勧誘を要求し、組織拡大要員として利用するなど、もっての他であります。
釈尊は、五逆罪を犯したと自責の念から病で苦しむ阿闍世王に対して、「お前は五逆のものではない」と仰っています。親鸞会の説き方とは逆ですね。罪悪を感じないものには罪の恐ろしさを知らせ、罪悪に恐怖するものにはその恐怖を取り除き、正法を与えてさとりの世界へ導く、釈尊の巧みな御教導です。会員の皆さんは与えられるべき正法が全く与えられておらず、罪の恐ろしさばかりが教えられています。これ以上親鸞会にいても、教えはどんどんねじ曲がるばかりで正しくなる見込みはありませんから早く離脱し、本願寺などで信頼できる僧侶から聞かれることをお勧めします。
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ひつだむけんって言われても、意味がわからん 行き先によらず、氏ぬのがこわい

>絶倫棒様

必堕無間というのは浄土真宗で昔から言われていたようです。必ず無間地獄に堕つるということですが、我々の想像を絶する苦しみの激しい世界です。
それに一切衆生をくっつけてカルト化させたのが高森会長で、その誤りは様々に指摘されている通りです。

「死ぬのがこわい」というのは煩悩ですから、本願を信じ念仏する身となってもどうにもなりません。しかし本願力に遇うか遇わないかで行き先が五道・六道といえる悪趣か、浄土かと大変違いますから、今本願力に遇って頂きたいと思います。南無阿弥陀仏

ひつだむけんの正しい意味は?

>絶倫棒様

必堕無間とは、必ず無間地獄に堕つるということです。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E9%96%93%E5%9C%B0%E7%8D%84より引用

無間地獄

阿鼻(あび)地獄ともいう。八大地獄の最下。五逆(ごぎゃく)謗法(ほうぼう)の者の堕ちる地獄で、最も苦しみが多く、間(ひま)なく苦を受けるから無間と呼ばれる。


地獄とは苦しみの世界ということですが、地獄という世界が初めからあってそこに悪人が行くのではありません。各々の業が生み出す世界です。なので「落ちる」とは言わず「堕ちる」と言います。絶倫棒さんが日頃どのようなことを思い、どのようなことを言い、どのようなことを行っているか、静かに振り返ってみられたら、後生は六道の中でどの世界に行くのか、おおよそ見当がつくと思います。

・人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。(御文章2帖目7通)
・人間は不定のさかひなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。(御文章5帖目11通)

と蓮如上人も教えられています。人生は一旦の浮生、不定の境界であり、後生は永生の楽果、極楽は常住の国であるから、不定の人間にあるより常住の極楽を願いなさいとのことです。今生の楽しみは多くありますが、それも一時の夢・幻であり、後生こそ一大事ですから、急いで信心決定して、報土の往生を遂げて頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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